古代ロマン薫る大和の歴史を刻んだ最古の官道・山辺の道/前編

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『古事記』や『日本書記』にもその名が記され、南は奈良県桜井市から北は奈良市まで大和の青垣と呼ばれる奈良盆地の東端、三輪山、龍王山、高円山から春日山までおだやかな山並みが連なる山裾を南北に縫うようにして続くことから名付けられた日本最古の街道が「山辺の道」です。蘇我馬子が歩き、聖徳太子はまほろばの風景に見惚れ、時代は下がって後醍醐天皇は再起を誓いつつ吉野へ向かった。戦乱の時代を幾たびもくぐり抜け、伊賀・藤堂藩士であった若き日の松尾芭蕉も訪れ、その後も明治維新から近代に至るまで連綿と人や物が行き来した道です。全長約35Kmのうち、中でも古代の面影をよく残し、万葉びとの息づかいを伝えるのが桜井市金屋から天理市の石上神宮までの約16Kmです。古社寺、古墳、万葉歌碑など多彩な伝承の舞台が展開し、神話や古代ロマンの世界へ誘ってくれます。史跡めぐりとともにハイキングを楽しむことにしました。

山の辺の道は三輪から奈良へと通じる上古の道。大和平野には南北に走る上・中・下ッ道の官道があり、それぞれ7世紀初め頃に造られました。上ッ道のさらに東にあって、三輪山から北に連なる山裾を縫うように伸びる起伏の多い道が山の辺の道です。現在その道をはっきりと跡づけることはできませんが、歌垣で有名な海柘榴市から三輪、景行・崇神陵を経て、石上から北上する道と考えられているのですが、その大部分は東海自然歩道に指定されています。しかし今日は半分の桜井から崇神陵までの8.5Kmを歩くことにしました。実はいきたい蕎麦屋さんが柳本にあったからです。

近鉄特急を使って大和八木駅まで行き、乗り換えて桜井駅で下車したのが7時15分。駅からの道路の左端には「山の辺の道」の絵タイルがはめこまれた歩道が続き、曲がり角にも方向が示されたタイルが埋めこまれている。

スタート地点は近鉄桜井駅から1.6Km、桜井市金屋。三輪山の南麓を流れる初瀬川(泊瀬川)岸あたりは、大陸からの船が難波津から初瀬川をさかのぼって到着する船着場があった場所で、外国から多くの遣いや物資が上陸したと伝えられています。この辺りは日本最古の市ともいわれる「海柘榴市」が置かれていたところで、奈良盆地の東南部に位置し、『万葉集』にて「紫は灰指すものそ海柘榴市の八十衢(やそのちまた)に逢える児や誰」と詠われたように古代、東西南北の陸路や浪速への水路が集まる八十衢(八方から道路が離合集散する交差点)に位置した重要な市場であり、人々が性愛を含んださまざまな心情を投げかけ合う出会いの場でした。外国からの使者を迎える際には、この川の畔に美しく飾った馬を並べて歓待したといいます。

さらに、長さ約50kmにわたって連続する谷地形が海柘榴市を発着点として東方に延びていて、かつては奈良盆地と東国をつなぐ伊勢街道あるいは初瀬街道の名で知られていました。海柘榴市は単なる交差点上にある市場の役割だけでなく、奈良盆地を中枢とした畿内と東国を結ぶ回廊地帯の出入口でした。そこは日本列島の東西結節点といえるほど重要であり、海柘榴市が古くから多くの人々の関心を集めたことも頷けます。今では民家が建て込んでいる路地の奥にひっそりと佇んでいる「海柘榴市観音堂」にその名を残しているだけですが、山の辺の道の南の起点でした。

古代の市場は物を売り買いするだけの場所ではなく、大道芸をしたり、集会を行う場所でもありました。すなわち日本最初の繁華街だったのです。春と秋には若い男女が出逢い、即興の歌を交わして互いの気持ちを確かめ合う「歌垣」が行われた舞台として知られ、人々が性愛を含んださまざまな心情を投げかけあう出会いの場でもあったのです。万葉集をはじめ日本書紀、枕草子にも登場し、日本書記で皇太子だった武烈天皇と平群臣鮪が海柘榴市の歌垣で影姫を奪い合う悲愛の伝説があります。

琴頭に 来居る影媛 玉ならば 我が欲る玉の 鰒白玉
大王の 御帯の倭文織 結び垂れ 誰やし人も 相思はなくに

またこの場所にひとかたならぬ興味を示した紫式部は、著書『源氏物語』で物語前半の重要な折り返し点ともいえる内容の「玉鬘」巻で、光源氏の死別した恋人(夕顔)が残したひとり娘(玉鬘)が、自分探しとも呼べる苦悩を深めながら、人生の好転を求めて長谷寺の観音様に救いを求める旅に出ますが、平安時代に長谷寺詣の起点となっていたのが海柘榴市でした。

この辺りは欽明天皇の宮殿、磯城嶋金刺宮があった場所とされ、欽明天皇13年(552)、百済の聖明王からの使節もこの地に上陸し、釈迦仏の金剛像一体と経論若干巻等を献上し、日本に仏教を最初に伝えたといわれています。その「仏教伝来之地碑」が堤防の上に建てられています。

町家が並ぶ道を抜けると、ベンチを置く休憩スポットがある。そのすぐ背後に石仏の納められた鉄筋の収蔵庫が立っています。蔵められているのは「金屋の石仏」と言われる2体の石仏です。平安時代でも後期の造立で、いずれも高さ2.14m、幅83.5cm、厚さ21.2cmの2枚の泥板岩に釈迦如来像(右)、弥勒如来像(左)が浮き彫りにされていて、格子越しに拝観できます。

いよいよ、ここから木々が生い茂る山裾の狭い道に入る。いかにも古道といった雰囲気に志気が上がる。土の感触を感じながら進むと、Uピンのようなカーブがあり、その先の三輪山の神域に入る手前あたりにあるのが「平等寺」です。もとは大神神社の神宮寺で581年聖徳太子が賊徒を平定するため、三輪明神に祈願して賊徒平定後十一面観音を彫んで寺を建立し大三輪寺と称したのにはじまる古刹である。関ヶ原の戦いに敗れた島津義弘が一時この寺でかくまわれていたと伝わる。

歩くこと約1.2Km(25分)いよいよ「大神神社」に参拝です。大神神社は、「大和国一の宮」で『古事記』『日本書紀』に創建の由来が記される日本最古の神社といわれている。大神と書いて「おおみわ」と読むのは、古代には大神といえばすなわち三輪の神を指していたからといいます。三輪山は国を開いた大国主神(大国様)が自らの御魂を大物主大神の名で三輪山に留めたということが記紀神話に記されている霊山。48峰といわれる峰々から成り、笠を伏せたような山容が美しく「パワースポット」と称されるよりはるか昔から「神の宿る山」として崇められてきた聖地で、高さ467m、周囲16km、面積350haのお山は一木一草に至るまで神宿るものとして尊ばれています。

三輪山は、春日山系では珍しく斑レイ岩で形成され、山中には巨大な岩が数多く露出していて、これらの岩石群は、山頂付近の奥津磐座、中腹の中津磐座、山麓の辺津磐座というように呼ばれ、それぞれの磐座には大物主神、大己貴神、少彦名神が鎮まるといわれる。

大神神社の入口にあたる二の鳥居。鳥居の先に樹林に覆われた参道に伸び、境内を南北に走るのが山辺の道です。二の鳥居を抜けて祓戸神社の先、参道の左手にあるのが「夫婦岩」。二つの岩が仲良く寄り添っている姿から夫婦岩と呼ばれ、良縁や夫婦和合を願う人々から信仰を集めています。寄り添う石には大物主大神と美しき人間の女性・活玉依毘売の恋物語があり、「赤い糸をたどると、三輪の社まで続いていた」というロマンチックな伝説が残っているのです。

参道を進むと大注連縄の向こうに重厚な檜皮葺の社殿が見えてくる。神社の入口に立つ注連縄は鳥居よりも古い形だといいます。この注連縄は左側が太くて右側が細くなっている「左本右未」、普通の神社とは逆で出雲大社・熊野大社など国津神を祀る神社に多いとのこと。ご神体は古代人が神の坐す山として信仰した背後の三輪山そのもので本殿はなく、拝殿は寛文4年(1664)徳川家綱再建で、唐破風造の大向拝が見事です。周囲の緑と見事に調和した豪華な拝殿から「三ツ鳥居」を通して山に向かって拝む古代の信仰形態をとどめています。三つの鳥居を組み合わせた独特の型式で「古来、一社の神秘なり」と伝わる。

境内の拝殿前には、注連縄に囲まれた樹齢400年の大杉「巳の神杉」があります。根元には白蛇(巳さん)が棲んでいるといわれ、巳さんの好物の卵やお酒が供えられています。また「杉の社」と呼ばれるほど杉は大神神社のシンボル。拝殿向背の天井には直径1.5m、重さ250kgの「大杉玉」が吊り下げられています。三輪の神は古くから酒と薬の神様として信仰を集め、造り酒屋のシンボルである杉玉は三輪山の杉で作られます。どんな言い伝えでも山の辺の道では素直に頷いてしまいます。

大神神社の境内のわきを通って続く薬の神様「狭井神社」への参道は、くすり道ともいわれ、薬業関係者が奉納した灯籠が立ち並びその間に約50種、多くの薬用植物が育っています。

途中には「磐座神社」があり、社殿はなく少彦名神の鎮まる頑固な岩・辺津磐座を祀っています。

歩くこと200mで「狭井神社」に到着する。三輪山に坐す「和魂」に対して大神荒魂神を祭神とする大神神社の摂社で、三輪山の麓に檜皮葺きの美しい拝殿が立っています。鬱蒼と苔と草に覆われた厳かな雰囲気があります。延喜式神明帳に記される古社で、華鎮社とも称され、疫病を鎮める神として信仰されています。社名の「狭井」とは、神聖な井戸・泉・水源の意味で、社名の由来ともなった三輪山を水源とする神水の湧きでる「薬井戸」がある社寺として有名です。

この水は古くから「くすり水」として信仰され、万病に効く神水といわれているため、全国から健康祈願の参拝者が多く訪れています。備え付けの殺菌済みのコップ(無料)で喉を潤してみてください。冷たく少し甘い水は歩き疲れた体を一気に癒してくれます。

ここから大神神社の御神体である三輪山へ登ことができる登拝口が拝殿右手にあります。往復で2時間半、神様の体内に入っていくことから山頂まで写真撮影は禁止です。参拝証でもある参拝の略装となる襟タスキを戴いて神山の入口で祓い串で自らを清めて入ります。山頂付近の奥津磐座、中腹の中津磐座は神聖視され、結界が張られています。※現在はコロナ感染予防で中止です。

境内を南北に走る山辺の道を北に1Kmほど歩くと平安時代の初期、桓武天皇と嵯峨天皇の厚い信任を得ながら三輪山の麓に隠棲した玄賓僧都の庵である「玄賓庵」にぶつかる。玄賓僧都は、興福寺の起源である山階寺の僧で桓武天皇の律師を辞退して三輪山の桧原谷に庵を結んで隠棲したのです。世阿弥の作と伝わる謡曲「三輪」の舞台で、玄賓がここで三輪明神の化身である女性と知り合い、三輪の故事神徳を聞かされるという筋書きです。

さらに300m程、古代の雰囲気が残るうす暗い山裾の道を進み、ゆるやかな坂道を登ると目の前から光が差し、眺望が開けます。批評家・小林秀雄揮毫の「山邊道」道標は、道のシンボルのひとつです。

大和国中を一望する絶景の檜原台地に松林の中の美しい大神神社の摂社「原神社」がある。大神神社の摂社のひとつで祭神は天照大御神。宮殿に祭っていた天照大神の神霊を崇神天皇が豊鍬入姫命に託して祭ったといわれる笠縫邑伝承地(伊勢神宮に遷される前に一時鎮座した地)、すなわち元伊勢と呼ばれます。

大神神社と同じく明神型の鳥居3つを一つに組み合わせ「古来一社の神秘なり」と伝えられる独特の形をした三ッ鳥居があるだけで社殿はありません。その理由は三輪山の中にある磐座を御神体としているためで、自然崇拝の原始信仰の雰囲気を色濃く残しています。境内はよく整備されており、玉垣に囲まれた三ツ鳥居の存在を潔く引き立てています。とても神秘的でキリッとした空気が流れ、自然と背筋が伸びて身が引き締まるのを感じる程、他の神社よりも別格の神々しさを感じる空間です。この鳥居から真東をたどると伊勢の斎宮跡、真西は淡路島の伊勢の森に至るとか。

境内から鳥居越しに西を見れば、近景に果樹園、中景が大和三山、遠景正面に二上山、眼下に箸墓と大和平野を望むことができ、大島縄ごしの二上山に日が沈む夕景が素晴らしいらしい。ここには今も古代の風が吹いているようです。

ここから先、巻向川を渡ったあたりからは古代ヤマト王権の故地、「纏向遺跡」です。纏向遺跡はその西方、纒向川扇状地に広がる東西2キロメートル、南北1.5キロメートルの弥生期最大の遺跡で「邪馬台国」の有力候補地の一つとのことである。纒向がヤマト政権発祥の地と考えられている理由は、弥生時代に過疎地域だったにもかかわらず、突如として大集落が形成されたとのこと。集落の規模が同時期の他集落よりはるかに大きいこと。農耕具がほとんど出土せず、遺跡内ではいまだ田畑跡が確認されないことなど、政治的な意図のもとに「都市」が形成された可能性が説かれています。また箸墓古墳を代表に纒向石塚古墳、纒向勝山古墳、ホケノ山古墳など、発生期の前方後円墳が集中して築かれている事実も大きい。当地で発生した前方後円墳は「纒向型前方後円墳」と呼ばれ、前方部が短いホタテ貝に近い形。だが古墳時代中期の帆立式古墳とは異なり、全長・後円部・前方部の長さが3:2:1となる。以降、前方後円墳は王権の象徴となっていきます。

纏向遺跡」の案内板がある道を上り「穴師坐兵主神社」に向かう坂道の途中に、「景行天皇纒向日代宮跡」の石碑が立つ。ここは第12代景行天皇が宮を営んだとされる伝承地です。付近での発掘調査が進めば、宮殿の史実性についても明らかになると考えられています。景行天皇は、第11代垂仁天皇の第二皇子で、熊襲を征討すると共に、息子の日本武尊を派遣して蝦夷を平定したと伝わる。第11代垂仁天皇が営んだとされる「纒向珠城宮跡」と共に、この巻向で初期ヤマト政権が生まれたことを「記紀」は語っているのです。

兵主神社参道脇にあるのが「相撲神社」です。穴師坐兵主神社(大兵主神社)の境外摂社で、野見宿禰を祀り日本の国技である相撲発祥の地と伝えられます。『日本書紀』によれば、第11代垂仁天皇7年7月7日、「カタヤケシ」と呼ばれるこの地で、出雲国の野見宿禰と、当麻邑の当麻蹴速による日本最初の天覧相撲が催されました。結果は、野見宿禰が当麻蹴速の腰を踏みくじいて勝利。野見宿禰は以後、大和朝廷に貢献することとなります。野見宿禰は埴輪造りの元祖でもあり、それまで続いていた殉死をよしとしない天皇に、埴輪で陵墓を飾ることを提案。それが採用され、土師の職に任ぜられたと『日本書紀』に記されています。

突き当たりにある「穴師坐兵主神社(大兵主神社)」は大神神社、大和神社、石上神社と並ぶ大社で、創建は崇神天皇60年(約2000年前)といわれる。穴師山の山麓、纒向川の北に鎮座し、全国に例を見ない三ツ屋根造りの神殿に3社を合祀しています。元は穴師坐兵主神社(名神大社)、巻向坐若御魂神社(式内大社)、穴師大兵主神社(式内小社)でしたが、室町時代に合祀されました。現鎮座地は穴師大兵主神社のあった場所で、旧鎮座地は「弓月ヶ岳」とありますが、これには竜王山・穴師山・巻向山の3説があるらしいのです。

ここから11:30のお蕎麦屋さん開店までに天皇陵ふたつ見に行くラストスパート2Kmの道のりです。山の辺の道を10分ほど歩けば、全長約300mの渋谷向山古墳といわれる「景行天皇陵」がある。「御陵は山辺の道の上にあり」と古事記に記され、山辺道上陵ともいい、丘陵の先端を利用して3段に構築された古墳時代前期のものと考えられる前方後円墳です。橿原市の丸山古墳(全長約320m)にわずかに届かぬものの、柳本古墳群の中でも最大規模で、その規模は奈良県内第2位、全国でも7位を誇る周囲約1Kmに濠をめぐらせた堂々たる古墳です。景行天皇は『古事記』『日本書紀』に記される第12代天皇で、崇神天皇の孫で日本武尊の父であり、「穴師坐兵主神社」に向かう坂道の途中にあった「景行天皇纒向日代宮跡」で宮を営んでいました。

さらに北に1Km歩くと卑弥呼の弟とも言われる「崇神天皇陵」があります。『日本書記』に「山の辺の道の勾の岡の上の陵」と崇神天皇陵の場所について記していることから「山辺道勾岡上陵」ともいい、まずはその大きさに目をみはります。柳本古墳群を構成する主墳の一つ行燈山古墳で、全長242mもの前方後円墳。数字だけでは、その巨大さは実感できませんが、周濠に沿って墳丘を一周することができ、視界に入ってくる横幅や奥行きだけでなく、木々に覆われた後円部頂上の、見上げるほどの高さにも注目です。崇神天皇は『古事記』と『日本書紀』に「初国知らす御真木天皇」と記される第10代天皇で、「記紀」には具体的な事蹟が多く記され、実在した王として考える見方も強く、大和政権の初代大王といわれます。三輪山の麓に初めて宮を営み、実質的に初めて国家体制を整えた天皇としてたたえられています。

さて169号線沿いの「崇神天皇陵」と「景行天皇陵」の間にある蕎麦屋「石臼挽蕎麦 かおく」に向かうため「柳本」交差点を右折すると、こんもりとした柳本古墳群のひとつ、「大和天神山古墳」が見えてきます。墳丘の東側半分は国道169号線の建設と共に削り取られてしまいましたが、残った西側半分は今も前方後円墳としての姿をよく残していて被葬者は、初期ヤマト政権の有力者だと目されています。この天神山に文明年間より鎮座する古社が「伊射奈岐神社」です。社伝では、崇神天皇の時代の創建とされ、東国征伐へ向かう日本武尊が戦勝祈願をしたとされる趣きがあり地元からの信仰も篤い神社です。静寂の中に大鳥居、拝殿、春日造りの本殿を見ることふぁできます。山の辺の道の散策時に立ち寄ってみる価値はあります。

今日の目的の「石臼挽蕎麦 かおく」に到着。11時半開店、靴を脱いで上がる自宅を改装された店内は二間続きの座敷の畳部屋に重厚な落ち着いた卓が適度な間隔で配置され寛げます。普通の民家の大きな布看板がかかる店名の字は時代劇画家・平田弘史さんです。

メニューはお蕎麦のみで天ぷらはなく、日本酒は東長・切辛・三諸杉菩提元・大黒正宗とそろっているものの酒肴はない。メインはもりそばの「抜き」と「玄」で800円です。「抜き」の十割を注文、石臼で挽いた十割そばは芳醇な香り、細打ちでツルッと喉を通り抜けていく喉越しの良さ、腰の強さ・・・とレベルが高い。

今回の山辺の道は近鉄桜井駅からJR柳本駅までの約8.5km、全行程の半分で終了です。健脚で時間に余裕のある方は、一日歩き続けて天理の石上神宮を目指していただけますが、この先の長岳寺で一旦終え、柳本駅からJRで天理へ出て石上神宮に行く後半省略コースもおすすめです。次回JR柳本駅から後半に続きます。

古代ロマン薫る大和の歴史を刻んだ最古の官道・山辺の道/後編はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/196

 

 

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