日本遺産・住吉大社とゆかりの社寺を訪ねて大阪“ちん電”旅

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大阪には天王寺から堺をつなぐ“ちん電”の名で親しまれる阪堺電車という開通100周年を超す歴史ある大阪で唯一の路面電車が走っています。日本一の高層ビル・あべのハルカスに1800年の歴史をもつ住吉大社など新旧の名所を下町風情あふれる町並みとともにめぐることができます。室町時代以降、遣明・南蛮貿易の中心地となり、国際都市として繁栄した堺。江戸時代、現在の大阪と北海道日本海経由で結ぶ多数の回船(商船)があり、この航路を利用した商船「北前船」の起終点となった大阪市。そんな北前船の船主たちが航海の安全を祈願して参詣した住吉大社ゆかりの社寺をめぐります。

始発駅の天王寺駅前は、道路の拡幅とその周辺の大開発でめまぐるしく風景が変わるなかにあって、阪堺電車の乗り場だけが、泰然と道路の真ん中で変わらない姿を見せています。天王寺駅前駅から阪堺電車に乗ると、どこまで乗っても一回210円ですが、「てくてくきっぷ」なら全線1日乗り放題で600円です。懐かしいスクラッチ式一日乗車券は、年月日を爪や硬貨で削り、運転士に見せるだけでいい。

日本一高いビル、あべのハルカス前から大阪唯一の路面電車、阪堺電車に乗って出発です。チンチン、グググーン、ダダン、ダダン、ダダンと電車が軽いローリングのような揺れと電動機の唸り音とともに走り始めます。速度の過剰に早くなく、町並みとの距離感もいい。時には道路を車や道行く人々とともに、時には大和川の鉄橋をのんびりと、ほのぼのとした雰囲気で走っていきます。

天王寺駅前を出て住吉鳥居前停留場で下車。カラフルな車体も大阪らしさ全開です。

まず目に飛び込んできたのが住吉大社一の鳥居・西大鳥居です。鳥居の前で軽く会釈して気持ちを引き締めてくぐります。地元の人々から“すみよっさん”の愛称で親しまれる全国約2300社の「住吉大社」の総本社で摂津国一の宮として崇敬をあつめています。江戸中期から明治30年代にかけて北海道・東北・北陸と西日本を結んだ西廻り航路は経済の大動脈であり、この航路を利用した商船は、瀬戸内地方から見て日本海は北にあることから「北前船」と呼ばれました。日本海や瀬戸内海沿岸に残る数多くの寄港地・船主集落は、北前船の壮大な世界を今に伝えていて、起終点となった大阪市もその一つとして日本遺産「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落~」の認定を受けています。ここ住吉大社は北前船の船主たちが航海の安全を祈願して参詣した場所です。

慶長年間に淀君が豊臣秀頼の成長祈願のために奉納したと伝わる正面神池に架かる反橋(太鼓橋)は住吉大社の象徴で、長さ約20m、高さ約3.6m、幅約5.5mで最大傾斜は約48度になります。この橋を渡るだけで「おはらい」になるととの信仰もあり、多くの参詣者がこの橋を渡って本殿にお参りします。「あなたはどこにおいでなのでしょうか」で知られる川端康成の短編小説「反橋」(昭和21年)にも描かれていて「反橋は上るよりもおりる方がこはいものです、私は母に抱かれておりました」と記しています。

反橋を渡って緑に囲まれた境内には神社建築史上最古の様式のひとつ・住吉造を伝える国宝の四本殿はすべて大阪湾の方角に西面して鎮座する全国でも珍しい配置の建築様式です。創建は1810年前、神功皇后摂政11年(211)、神功皇后が三韓遠征の凱旋途中、住吉大神の神託によって住吉大神を住吉の地に鎮斎されたことによります。

住吉大社の御祭神は、伊弉諾尊が黄泉の国で受けたケガレを清めるために海に入って禊祓を行われた際に、海中より出現された住吉大神である「底筒男命(第一本宮)」「中筒男命(第二本宮)」「表筒男命(第三本宮)」、そして当社鎮斎の「神功皇后/息長足姫命(第四本宮)」です。住吉大神は海中より出現されたため、海の神としての信仰があり、仁徳天皇の住吉津の開港以来、遣隋使・遣唐使に代表される航海の守護神として崇敬を集めてきました。「住吉に斎く祝が神言と行とも来とも船は早けん」(万葉集)と詠まれるこの歌は、奈良時代、遣唐使に対し無事の帰還を約束した住吉大神の言葉として神のお告げを伝えたものです。江戸時代には北前船の船主や廻船問屋により寄進された約600基の石灯籠が境内立ち並んでいます。

源頼朝の寵愛を受けた丹後局が北条政子により捕えられ殺害されるところ難を逃れ摂津住吉に至ったところで産気づきました。住吉明神に祈る中傍らの大石を抱いて男児を出産しました。若君に成長した男児は後に薩摩・大隅二か国をあてられましたが、これが島津氏初代・島津三郎忠久です。この故事により、住吉社頭の力石は「誕生石」として島津氏発祥の地とされ、この小石を安産の御守とする信仰が続いています。

住吉鳥居の特徴は、貫の両端が柱から外に出ないことと、柱が四角であることで、「角鳥居」とも「住吉鳥居」とも呼ばれます。また住吉大神は伊弉諾尊の禊祓を行われた際に、海中より出現されたので、神道でもっとも大事な『祓』を司る神です。住吉大社の夏祭り「住吉祭」が単に「おはらい」と呼ばれ、日本中をお祓いする意義があるほど、古くより「祓の神」として篤い崇敬を受けてきました。住吉祭夏越祓神事(茅の輪くぐり)が置かれています。

本殿が4つに分れ、第一本宮~第三本宮までが縦に、第四本宮は第三本宮の横に、あたかも大海原をゆく船団のように建ち並ぶ配置は他にないもので、古代の祭祀形態をよく伝える貴重な存在です。「三社の縦に進は魚鱗の備え 一社のひらくは鶴翼の備えありよって八陣の法をあらわす」とも伝えらえれています。(写真は手前に第三本宮、中に第二本宮、一番奥に第一本宮、写っていませんが第三本宮の右横に第四本宮があります)

構造は「住吉造」という神社建築史上最古の特殊な様式です。屋根は桧皮葺で力強い直線的な切妻造りで、棟の両側に流れる二つの斜面は、書物を開いたように見えます。柱・垂木・破風板は丹塗り、羽目板壁は白胡粉塗で、丹と白と黒を中心に彩られています。黄金の金具がさらに鮮やかな色彩美を作りだしています。出入り口が直線型妻入式で、屋根の両端(つま)が正面に向いているのが特徴です。写真は第二本宮です。

第二本宮の金扉の奥、室内は内陣と外陣の二間で回廊がないのも特徴です。

第一本南側に「五所御前」という場所があります。別名高天原ともいい住吉大神降臨の伝承地です。奈良時代に編纂された「摂津国風土記」には、神功皇后摂政11年辛卯年(211)、勅命を奉じた田裳見宿祢(住吉神社の始祖)が大神の神殿を建立すべき処を求めて天下を巡りこの地(住吉)に至った際、「真住吉 住吉国」との神託を得て当地を選定したところ、その地の杉の大樹に白鷺が3羽飛来してあたかも歓喜、賞賛するかの様子であったので住吉大神の御心に叶った処として当社の鎮座地を定めたものと伝わります。そのため四神殿に準じた神蹟として五所御前と言われます。

御垣内の玉砂利の中には「五」「大」「力」の各文字が記された石があり、参詣者自身で探し出し三つを揃えて願掛けの御守にすると五つの力(体力・智力・財力・福力・寿力)を授かり心願成就するという風習があります。願い事が叶ったら同様の小石を用意して御所御前で拾った石とともに倍返にして返します。神石を増やして末広がりに幸福がもたらされる循環式信仰です。

南門に進むと慶長12年(1607)豊臣秀頼によって寄進された石舞台があります。四天王寺、厳島神社とともに日本三舞台のひとつで、舞楽を奉納するところです。

本殿を詣でた後、摂末社を参ります。摂社は住吉の祭神とゆかりの深い神社で、末社とは住吉と関係のある神社や、尊敬している人が境内に招いた神社、その他の社のことです。他の摂末社と大きく異なり瑞垣内の第二本宮南方の建物内神饌所に面してお祀りされているのが末社「侍者社(おもとしゃ)」です。神功皇后の命を受けて住吉大社初代神主津守氏の祖・田裳見宿祢とその妻・市姫命をお祀りし、田裳見宿祢が住吉大神の最も御傍にて祀ることから侍者と称したのではないかとされます。

近年では、この神社は「神と人」を結ぶ、中執り持ちの役目を担ったことから、縁結びの神として篤く信仰されます。

本宮の北側に鎮座する摂社・大神神社は山幸海幸の神話で有名な海宮の龍王・豊玉彦とその娘・豊玉姫を祀り、本社についで御神格の高い社です。御本殿は本社と同じ形式の「住吉造り」で、四本宮よりも古く宝永5年(1708)に造営され、本殿・渡殿・幣殿・西門とともに重要文化財です。

鎮座地の西方は、往古より「玉出嶋」といい、神域の社は「磐手の森」と称し、萩と藤の名所でした。社前の井戸「玉の井」は山幸彦こと彦火火出見尊が海神よりいただいた「潮満珠」「潮干珠」のうち「潮満珠」を沈めたと伝えられています。

住吉大社といえば商売発達、家内安全の「はったつさん」。初辰とは、毎月最初の辰の日のことで、この日に参拝すれば、より一層力を与えて守り助けてもらえると信仰されています。4年を一区切りとして、毎月招福猫を受けて48回参拝すれば満願成就となり、つまり四十八辰、つまり始終発達するという意味からきたもので、4年間月参りを続けられるというのは、それだけ無事発達しているということでもあります。

参拝ルートは、大海神社の隣に鎮座する「種貸社」が初辰まいり一番参りで、「願いの種」を授かります。ご祭神は倉稲魂命(うがのみたまのみこと)で、ご祈祷した「お種銭」を授かり、これを商売などの元手に加えて、資本充実の祈願をします。

種貸人形を受けると子宝を授かる信仰があります。昔話で有名な『一寸法師』は、実は住吉大社の申し子だったのです。子供に恵まれない老夫婦が住吉の神様に祈願すると子供を授かったのですが、その子は一寸しかなく一寸法師ろ名付けられました。その後志を立てお椀の舟に乗り、腰には針の剣を差し、箸を櫂にして住吉の浦より京へ上ったのです。

初辰まいりの中心が第一本宮の裏にある樹齢約1000年の楠を御神木としてお稲荷様宇迦魂命を祀る「楠珺社」です。初辰まいり2番参りで、「願いの発達」を祈ります。奇数月は左手(人招き)、偶数月は右手(お金招き)を挙げた毎月授かる「招福猫」という小猫を48体そろうと満願成就の証として納め一回り大きな招福猫と交換してもらうのです。

境内からは離れたところにある「浅澤社」は、初辰まいり3番参りで、「芸事や美容の願い」に福を授かります。その昔、ここから南にかけては清水の湧く大きな池沼があり浅沢と呼ばれ、奈良の猿沢、京都の大沢と並ぶ近畿の名勝でした。とくに住吉の浅沢は杜若が美しく咲き乱れ、『住吉の浅沢小野の杜若 衣に摺りつけ着む日知らずも』と万葉集にも詠まれたように、多くの歌集にその名をとどめています。

住吉の弁天さんとして市杵島姫命を祀り、女性の守護神としても知られています。

淺澤者の奥にある「大歳社」が初辰まいり4番参りで「願いを成就」させてもらえる収穫集金の神・大歳神を祀ります。

大歳社境内に鎮座する、おいとしぼし社の「おもかる石」は願いを占う石として知られています。占い方はまずお参り、次に石を持ち上げ重さを確認。次に石に手を添えて願掛けして、もう一度石を持ち上げます。2回目に持ち上げた方が軽く感じればその願いは叶うというものです。おもかる石は全部で3つ、一つに絞って占うのもよし、「三度目の正直」に行きつくのもいいでしょう。

大阪の夏祭りを締めくくる住吉祭は大阪中をお祓いする「お清め」の意義があり古くより「おはらい」ともいわれました。7月海の日に住吉大社から昔住吉浜であった住吉公園まで巡行し、海水によって神輿を祓い清める「神輿洗神事」、7月30日「宵宮祭」翌日「夏越祓神事・例大祭」そして8月1日にいよいよ住吉大社の御神霊をお遷した神輿が行列を仕立て、御旅所である堺の宿院頓宮までお渡りする「神輿渡御」が行われます。修繕され明治14年に奉納された大神輿は重さ700貫(約2トン)、轅は11mと非常に大きく、反橋を渡る姿は見所です。行列を成して街道を南下、大阪市と堺市を隔てる大和川では神輿が川の中を勇壮に練り回り、やがて宿院頓宮に到着して祭典が行われます。

阪堺電車の上町線と阪堺線の乗り換え電停の「住吉」から再びチン電に乗車して「宿院」電停に向かいます。

宿院電停を横切るフェニックス通り沿い、堺山之口商店街入口の斜め向かいに「宿院頓宮」があります。文化13年(1816)、年代不詳ながら大阪・住吉大社の御旅所として創建された神社です。

現在は大正期に境内へ遷座された「波除住吉神社」の住吉大神と神功皇后と「大鳥井瀬神社」の大鳥連祖神・日本武尊が一社殿にて合祀されています。8月1日に住吉大社からの御渡りと飯匙堀での荒和大祓神事が実施されます。

境内西側にある飯匙堀は、海幸山幸神話の彦火火出見尊が海神よりいただいた「潮満珠」「潮干珠」のうち「潮干珠」を埋めた場所と伝わり、雨が降っても一年中、空堀という特徴があり、堀の形が飯匙に似ていることから名付けられたと言います。

堺山之口商店街のちょうど真ん中あたりにあるのが、海上交通を守る神であり、伊弉諾尊の子・塩土老翁神を祀ることから「住吉の奥の院」と呼ばれる「開口神社」です。山幸彦を竜宮城に導き、神武天皇に東征するように教えた神様でもあります。事勝国勝長峡神と同神で住吉三神と同神とも言われています。

神功皇后が三韓遠征より帰朝の際(皇紀269年頃)、堺の芦原浜付近に上陸された際に、神功皇后の軍に神力を添えたという塩土老翁神をこの地に祀られたのを創祀としています。奈良時代には開口水門姫神社とも称され、港を護る役割を持ち最古の国道といわれる竹内街道・長尾街道の西端にありました。境内には神功皇后が三韓遠征時の兜を埋め、戦勝を祝った兜神社が、宿院頓宮が遷移されています。

大通りに面した東口にある朱塗りの鳥居の傍らにある狛犬が見事です。

阪堺電車“チン電”で行く利休が生んだ茶の湯と和スイーツの旅はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/8102

 

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