『日本書記』にも記述がある日本最古の温泉と言われる「有馬温泉」は、神戸市の中心部からわずか30分、六甲山の北部に位置する豊かな自然に囲まれた温泉郷。日本三大古湯のひとつに数えられ、平安時代の風流人・清少納言は「枕草子」の中で「出湯は、ななくりの湯、有馬の湯、那須の湯・・・」と称賛し、江戸時代の堅物儒学者・林羅山が岐阜の下呂、群馬の草津と並び日本三名泉の一つに数えています。赤褐色の「金泉」、無色透明の「銀泉」と呼ばれる、趣も泉質も異なる2種の湯が湧き、美人湯効果が期待できるということで、豊臣秀吉をはじめとする歴史上の人物や文人墨客に愛された「関西の奥座敷」。六甲山の山裾、標高400mほどに位置する温泉街は、坂道や曲がりくねった小道が多く、賑やかななかにも、どこか懐かしい風情が感じられる。そんな風情ある温泉街をぶらいと歩いてまわります。
「有馬温泉」の歴史は、遠く神代の時代、大己貴命(大国主)と少彦名命(医療・医薬の神様)の二神が山峡有馬の里に静かにたちのぼる湯煙を発見したのが始まりといわれ、愛媛・道後、和歌山・白浜と並び日本三古泉にも数えられています。有馬の湯が広く知られるようになったのは、奈良時代に温泉の医療効果を認めた僧行基が薬師如来の導きで温泉寺を建立し、それを受けて鎌倉時代に吉野山に住む僧仁西が薬師如来の十二神将をかたどって12の宿坊を開いたのがきっかけであるといわれています。今でも有馬温泉の宿泊施設の名に「坊」がつくのはその名残です。
戦国武将と温泉は密接な関係にあり、さらに繁栄をもたらしたのが有馬温泉をこよなく愛した豊臣秀吉です。秀吉の軍師・黒田官兵衛も訪れています。天正6年(1578)織田信長に反旗を翻した荒木村重によって摂津の有岡城で約1年間幽閉されたことから左足が動かなくなるなどの瀕死の重傷を負った官兵衛が救出された後有馬温泉で1か月湯治をしたという記録が残っていますし、天正8年(1580)正月、三木城を攻略した後、秀吉は憔悴しきった顔で有馬の湯につかり、丸二日眠ったとの言い伝えがあります。秀吉は湯治のために、柴田勝家を破った後の天正11年(1583)以来、記録に残っているだけで9回は有馬に足を運んでいます。ねねや千利休をひきつれて、盛大な茶会を催した記録もあります。余程気に入ったのか、有馬温泉を直轄地とし、65軒の民家を強制的に撤去して自分専用の入浴施設「湯山御殿」を建設するほどでした。江戸時代には、全国でも指折りの湯治場として数多くの人々が訪れ、有馬千軒といわれるほどの賑わいをみせました。
有馬温泉へはJR山陽新幹線新神戸駅から北神急行電鉄、神戸電鉄有馬線の終着駅、有馬温泉駅で下車するか、JR三宮駅やJR大阪駅などからのバスもありますが、実は阪急西宮北口、JR西宮、阪神西宮、JRさくら夙川、阪急夙川を経由して有馬温泉へと運行している“さくらやまなみバス”があります。
そこで今回は朝8:12発、さくらやまなみバスに西宮戎から乗り込み芦有ドライブウェイを経由して8:58には有馬温泉到着です。降りたバス停は太閤橋の袂、渡った先には湯煙に見立てた滝が涼を誘う湯けむり広場とその傍らに座った豊太閤像があります。
秀吉の目線の先には、有馬川の河川敷に「親水公園」があり、その向こうには豊臣秀吉の奥様、ねね様の像と名をとった赤い欄干の「ねね橋」がひときわ目を引く。橋の名は、有馬を気に入り9度もこの地を訪れたという豊臣秀吉と正室・北政所(ねね)にちなんで名付けられています。
緑の山並みを背景にした温泉街の風景と親水公園の川のせせらぎ、マイナスイオンたっぷりの爽やかな空気が気持ちよい。ここで六甲川と滝川が合流しています。川の袂には「古泉閣」の泉源もあり、昼食温泉パックが人気です。かつては背伸びしないと手が届かない“憧れの高級温泉地”とされていましたが、食事と入浴付きの日帰りプランを多くの宿が打ち出し、山間でありながらアクセスの良い立地ということもあり、好評を博しています。
まずはみやげもの店が並ぶ大通りから温泉街ならではの風情ある坂道、太閤通を歩いて最初の目的地「金の湯」へ。金泉を利用した温泉で足湯や飲泉も楽しめる「金の湯」は有馬温泉発祥の地に設けられた、古来から有馬の元湯として歴史を刻んできた外湯です。有馬温泉は海から離れた山間部にありながら、舌先に触れただけでピリリとするほど海水並みかそれ以上の塩辛い塩分濃度をもち、独特の赤湯と呼ばれる鉄分を多く含む「含鉄ナトリウム塩化物強塩高温泉」で、その塩分が空気と触れることで鉄分の酸化が進み湧出時に透明な湯が赤茶けた色へと変化し、所謂「金泉」になります。これらの成分は南海トラフ付近の海水を起源に生み出されたといわれ、海水が地球の奥深くへと入り込んで近くに火山帯がないにもかかわらず海水の成分がを持っていると考えられています。また、環境省が療養泉として指定している九つの泉質のうち、七つの泉質の湯が湧いているという全国的にみても珍しい温泉です。湯船はぬる湯(42℃)とあつ湯(44℃)の二つがあり思ったよりサラっとした鉄泉の印象です。
湯上りの後は昼食まで散策です。「有馬温泉」の最大の特徴といえば、温泉郷のなかに泉源がいくつも点在していることです。日本最古の歴史を持つ有馬の湯には、全国的に見ても珍しい二泉(金泉、銀泉)が湧出していていくつかの泉源があり、泉源巡りが楽しめるのです。源泉とは地中深くにあろ温泉そのものの事を指し、泉源はその温泉から湧き出たスポットのことです。「天神泉源」 「妬(うわなり)泉源」 「有明泉源」「御所泉源」「極楽泉源」「炭酸泉源」と呼ばれる泉源があり、それぞれ見た目も異なり、記念撮影にもってこいなのです。。
金の湯の左奥に延びる石畳が続く古風な細い坂道湯本坂を上りながら古い街並みを見て廻ります。明治40年(1907)に三津繁松によって製造、販売された三津森本舗の「炭酸せんべい」。創業以来手焼きの炭酸煎餅を試食してみると、ほのかに温かく、薄くパリッとして香ばしく軽い歯応えが心地よい。味はくどくなく、優しい甘さが口に残ります。
川上商店「松茸昆布」、1300年の歴史を持つ「有馬人形筆」は、子どもができないのを嘆いていた孝徳天皇が有馬温泉で逗留して間もなく皇子が生まれ、有間皇子と名付けた故事にヒントを得て室町時代に人形師の伊助が有馬名産の筆に仕掛けを考案したのが始まりだと言われています。細い竹の軸に様々な色の絹糸を斜めにきつく巻いていき、それを隙間なく繰り返すと、色とりどりの幾何学的デザインが出来上がる。基本の模様は市松、うろこ、矢絣、青海波。この4種類と色の組み合わせ、無限の模様が生み出されていきます。尻筆からちいさな人形がひょこっと顔を出し、書き終えて筆立てに納めようとすると筆軸の中にストンと引っ込む。本居宣長は『有馬筆ひょいと出たる言のはも人形よりはめづらしきかな』と詠んでいます。豊臣秀吉や千利休が茶道具として愛したという竹細工「有馬籠」等、有馬の有名なおみやげ屋さんが軒を並べる。
そして赤いポストを目印に路地を入った先には、金泉の源泉のひとつで有馬温泉の泉源の代表格「天神泉源」があります。参道を上がった高台にある有馬天神社の境内にあり、地下約200mから100℃近い湯が汲み上げられ、給湯装置からたえまなくもうもうと湯煙りを噴き上げています。赤褐色の湯が道路脇の溝を染めて流れてくるのが見えて、温泉気分が盛り上がります。
さらに湯本坂を上がる。盛装した女性が立つと嫉妬するという「妬(うわなり)泉源」では地球の鼓動のようなゴーゴーという音にしばし立ちすくみます。
「銀の湯」の三叉路を左手に勾配の急なタンサン坂を登りきれば、街を見渡せる高台と整備された「炭酸泉源公園」が広がります。神社のような屋根付きの建物の中に「銀の湯」の泉源である「炭酸泉源」があります。ほこらの中にある丸い小さな井戸から炭酸煎餅の材料となる単純二酸化炭素泉が湧き出ていて、そのすぐそばに飲料場が作られていて蛇口をひねると炭酸泉が飲めるようになっています。昔は毒水として怖れられた炭酸泉でしたが明治期に飲用となることがわかり、日本のサイダーのルーツともされます。
タンサン坂のふもとに立つ銀泉の外湯「銀の湯」は、寺社が集まる周辺の雰囲気に馴染む和風の佇まいが特徴的。金泉とは対照的で湯は無色透明、サラリとした湯ざわりの「銀泉」と呼ばれる炭酸泉、ラジウム泉を利用した外湯は、入浴すると毛細血管が拡張して血液が増加し、神経痛や五十肩の関節痛などに効果があり美肌にもいいとか。少し汗をかいたので共通入浴券を利用して金の湯に入れば銀の湯にもということで入浴します。ヒノキが使われた蒸気式サウナも完備されていて浴槽の天井のヒノキとあいまって温泉情緒を感じさせます。大きな浴槽は太閤秀吉が愛した岩風呂遺構をイメージしてつくられている。
湯上りにはなんといっても「ありまサイダー」である。有馬で汲まれた炭酸水は明治時代に神戸港から海外へ輸出されていた。その後甘味を加え国内で販売を始めたのが日本初のサイダーの起源である。一升瓶が荷台で揺られて、栓のコルクが鉄砲玉のように勢いよく飛び出したことから「てっぽう水」とも呼ばれたそうです。大正時代には「有馬シャンペンサイダー」として人気を博し、大正15年に一度幕をひいた有馬サイダーでしたが、2002年秋に復活。昔ながらの味わいを出すために炭酸をきつくし、飲むと思わずゲップがでるほど。名泉に浸かった後の湯上りのサイダーは格別です。
銀の湯から秀吉が湯の湧出を祈ったという言い伝えの残る「ねがい坂」を下ると温泉寺、湯泉神社、極楽寺、念仏寺などの神社仏閣が密集する有馬の歴史と文化が凝縮されたエリアにでます。中心街の賑やかな雰囲気とはひと味違うゆったりと落ち着いた空気が流れています。途中には「極楽泉源」がありますが、工事中で全景が見れなかったのは残念です。
温泉街の中心部にあるのが聖徳太子が建立したという極楽寺で、有馬では「極楽寺か念仏寺の辺りに太閤さんの湯殿がある」との言い伝えがあったといいます。実際平成7年(1995)1月の大震災で壊れた極楽寺の発掘調査で、庫裏下から秀吉が造らせた「湯山御殿」が400年の時を経て発見され、その全貌が明らかになっています。現在「太閤の湯殿館」となっています。
建物には大阪城と同じ瓦を使い、半地下形式の石を敷き詰めた蒸し風呂や深さ65cmの岩風呂(湯船)が出土しました。軽石も見つかり、風呂の底には人の髪や体毛が残っていました。遺跡からは小さな滝がある庭園跡や碁石や茶碗も多く見つり、湯治目的だけでなく温泉地で茶を喫したり碁を打ったりしながら、のんびり湯に浸かって過ごしていたことが想像できます
「行基菩薩像」のある「有馬山温泉寺」。有馬最古の黄檗宗のお寺で、奈良時代の神亀元年(724)行基上人が薬師如来を祀ったのが起源とされています。秀吉の正妻・北の政所ねねの別邸と伝えられている「念仏寺」や「極楽寺」と合わせ温泉を見下ろす高台に 軒を寄せ合っている。
さらにねがい坂を下って金の湯方向へ、「カメ印 温泉堂」と書かれた看板の先の細い道を入ったところに「御所泉源」があります。凸型の円筒形の泉源で脇に階段がついていて後ろは民家。一見の価値ありです。
お昼の目的地「そば処 むら玄」に向かうため再び湯本坂を上っていく。※現在は閉店し、土山人。
一見すると御茶屋を思わせる明治34年(1901)の築後100年の木造2階建ての古民家を古い佇まいを維持しつつ和モダンな空間へと大胆にアレンジされています。座席14席の小ぢんまりとした店内は大きな窓があるものの外光は控えめ、格子窓や裏手の石垣で程よく外光が遮られたシックなムードに。
まずはそば前酒として「福源(700円)」一合頼み酒肴に「わさび菜」を頼む。山椒がぴりりと効いた自家製「そば味噌」が突き出しで少量でてきた。わさび菜の辛さにキリッとした福源がベストマッチである。
そばは海苔4枚が別に添えられた「ざるそば」を注文する。お酒がなくなったところで供してもらえる。この配慮が嬉しい。丸抜きのそばで打った十割そばは、ふくよかな香りを放ちしっかりとした長さとコシを備え、咽越し良好である。まずはお塩ほんの少しつけてそば本来のいい香りを味わう。専門店の海苔は風味豊かで、散らしたり、そばを巻いて手巻きのそば寿司に仕立てて味わいます。本枯節や熟成みりんなどを惜しみなく使った、返しを効かせた関東風のやや辛口のつゆにベストマッチがそば湯で、これまでのどのそば湯よりも美味しい。
最後の泉源「有明泉源」は、少し外れた所にあり、上から眺めて見てまわると振出しのねね橋のたもとに出てこれます。
まだ時間もあり地図では温泉街から随分離れた所にあるように思えますが時間にして15分~20分ほどのところに「鼓ヶ滝」を目指すことに。有馬温泉地内で最も高いマイナスイオン濃度が高い地点なのです。もう一度ねがい坂を登り、そこからこぶし道を「有馬・六甲ロープウェー」方面に歩き、街の南西から流れ込む滝川(有馬川上流)に沿った「鼓ヶ滝公園」をさかのぼると、江戸時代に有馬六景の一つに数えられた「鼓ヶ滝」に行き当たります。高さ20m程の滝は山懐の静けさの中に滝音が響きわたり、その滝音が鼓のように聞こえることから「鼓ヶ滝」と名付けられたとか。茶屋もありますが、しばしマイナスイオンを浴びリラックスできたので戻ることにします。
戻る途中には「月光園」があり、火災事故の「池之坊満月城」を見ながら歩いて温泉街に戻ると足はかなり疲労し、喉も渇いていて、疲れを癒すため金の湯の向かいにある瀟洒な建物で営む「カフェ・ド・ボウ」で寛ぐことにします。
「カフェ・ド・ボウ」は、陶泉 御所坊の13代目当主が住んだ家を改装して作った仏蘭西菓子店で、大正ロマン漂うレトロな雰囲気の中でJAZZを聞きながらのコーヒーブレイクで寛げます。一緒にいただくケーキは「有馬ロール」という温泉で煮詰めた塩を使った塩味が効いたロールケーキです。
帰りのバスは15:50。心地よい疲労感とほろ酔いを抱えて、西宮までバス一本で帰れる。神戸の奥座敷とはよく言ったものです。