長野県上田市の郊外、開湯は1000年以上も前といわれる別所温泉。平安時代にはすでに名湯として知られ、北向観音を中心に作られた街は信州の鎌倉と称され、鎌倉時代には信州学問・仏教の中心地となり多くの寺社が建てられました。戦国時代の武将真田氏、そして江戸時代は上田藩にも英気を養える地と重視されたという信州最古の名湯は、別名“美人の湯”といわれ、単純硫黄泉の湯は美肌効果が高く、一度入っただけでもそのお湯の良さは実感できるはず。歴史のある三つの外湯や気軽に入れる足湯など点在しており、由緒ある貴重な神社仏閣巡りと合わせてのんびり温泉散歩を楽しみに出かけます。
塩田平の奥座敷「別所温泉」。上田市の南西10km、独鈷岳や夫神岳、女神岳のふもとに抱かれるように位置する標高約600mの地点にある別所温泉は、景行天皇(71~130年)の時代、ヤマトタケルが東征の際に発見したと言われる開湯が1000年そこを以上も前といわれる信州最古の温泉です。その薬効は古くから知られ、平安時代の中期、清少納言は「枕草子」に「湯は七久里の湯、有馬の湯、玉造の湯」と記しているが、この七久里の湯が別所温泉ではないかという説がある。(三重の榊原温泉という説もある)泉質は無色透明単純硫黄泉で、源泉の温度は約50度。皮膚病、神経痛などに効能がある。
やがて霊験あらたかな温泉の効能と薬師信仰が強く結びつき、仏教の一大霊場となりました。それが北向観音であり、そこを中心として長楽、安楽、常楽の三カ所の寺ができ、一帯の塩田平は鎌倉時代“信州の学海”といわれ、信濃における宗教、学問の中心地となりました。
ちなみに「別所」という地名は、平維茂が戸隠の「紅葉」という鬼女の退治を北向観音に祈願し、退治に成功したため付けられたとされている。維茂は、鬼女退治後に現代の別荘にあたる「別業」をこの地に建て「別所」と呼び、これが地名の由来というのです。現在も別所温泉街の入口付近に残る「将軍塚」は維茂の墓と伝えられている。また鎌倉時代、近くの塩田に城を構えた塩田北条氏の別荘にちなんで命名されたとも。奥まったその場所柄か、温泉街の歓楽的な雰囲気はまったくなく、街全体にのんびりした風情が漂っている。
旅気分を味わいたく上田ー別所温泉を30分で結ぶローカル線上田電鉄別所線の終着駅「別所温泉駅」を覗いてみることに。別所温泉駅は、線路が山麓に突き当たったところに古びた洋館舎を構えています。観光案内所を兼ねた駅舎は大正10年(1921)に建築され、今も現役で使われている木造駅舎です。駅舎の待合室は天井が高くゆったりとした造りで、陽射しをやわらかく受け止める木枠の窓には当時のままのガラスがはめられ、アールデコモダニズム建築駅洋館と呼ばれるのにふさわしい大正期の建物らしさが今も残ります。アーチ型の入口の上には「BESSHO ONSEN STATION」という英文表記と上田電鉄の社紋が記されており、懐かしさと英文字を使い始めた頃に建てられた当時の流行が垣間見られる。現在駅舎業務を担当している別所温泉観光協会の女性職員は観光駅長と呼ばれ、和装制服の袴を着用し木造駅舎にふさわしい華を添えています。
かつて別所線を走っていたモハ5250形が、戸袋部分に丸窓を採用していたことから、いつしか「丸窓電車」の愛称で親しまれるようになりましたが1986年(昭和61)に引退し、現在この電車は駅駐車場の横に展示されている。
丸窓の伝統は、元東急電鉄7200系を改装してレトロにラッピングされた「まるまどりーむ号」に引き継がれて現在運行されている。丁度ホームに入ってきたところであったがお洒落なフォルムです。ワンマン運転の電車は千曲川を渡り、“信州の鎌倉”と呼ばれる塩田平をのんびりと走ります。広大な田んぼの中、電車は別所温泉にまっしぐらというわけではなく、あっちこっちの集落に寄って山里の温泉に近づいていきます。そのたびに印象的な山頂の独鈷山が左右に移動するのです。ここから温泉街までは坂道を歩いて10分ほどです。
別所温泉の散策はまず古刹巡りからですが、実は今日は天下の奇祭と呼ばれる雨乞いの祭「岳の幟」の日です。室町時代の大干ばつの時に村人たちが夫神岳九頭龍神に雨乞いの祈願をしたところ恵みの雨が降り作物が甦ったと伝えられ、500年以上続く祭りで温泉街を約6mの赤や黄色の幟を持ちながら夫神岳山頂から温泉街、そして別所神社へと練り歩きます。五彩の反物が深い緑の森に見え隠れする不思議な光景、幾重にも連なる幟は、何ともいいようのない趣を醸し出して、味わいのある行事です。
鎌倉幕府で連署を勤めていた北条義政が、塩田の地の前山に館を構え3代にわたり鎌倉幕府の重臣として活躍しました。その頃の影響を受けた建物が、今なお現存するため塩田平は別名「信州の鎌倉」と呼ばれるようになりました。面積だけでいえば約700メートル四方の落ち着いた山里の小さなエリアに,鎌倉時代から室町時代にかけて建てられた塩田北条氏ゆかりの国宝や重要文化財などの寺社が立ち並んでいます。まずは別所神社近くの大きな葺き屋根の本堂が美しい天台宗金剛山照明院「常楽寺」に向かいます。天長2年(825)開山は別所温泉を開いた円仁慈覚大師と伝えられ、北向観音堂が建立された時に三楽寺のひとつとして建立されました。三楽寺とは安楽寺と長楽寺(焼失のため北向観音堂の参道入口に碑が残る)そして常楽寺をさします。ご本尊は妙観察智弥陀如来で全国的にも珍しい宝冠阿弥陀様です。
北向観音の本坊であり、茅葺きの本堂は間口10間、約18mという江戸時代中期後半の天台の本堂としては屈指の規模です。本堂の意匠は彫刻的な要素は少ないが、寄棟造建築、正面中央には唐破風の向拝を付け、広く屋根を張り出すために禅宗様の組物が施されていて威厳のある茅葺屋根は訪れるものを魅了します。本堂内には当時そのままの格天井及び一本の欅からとれた六枚の透し彫の板がはめ込まれていて、間取りは中央に内陣、外陣がありその両脇に部屋があり、内陣の左脇の間が上段の間となっています。古い歴史を偲ばせる清々しい境内には御舟の松という舟の形をした地を這う樹齢300年の老松が美しい。
また本堂裏山杉林には国の重要文化財としては全国にふたつしか指定されていないうちのひとつで(他は滋賀県湖南市の廃少菩提寺多宝塔)弘長2年(1262)の奉納との銘がある鎌倉時代のものの「石造多宝塔」がある。高さは2.75mの小さな塔ですが、全体のバランスがよく、細部まで丁寧に造られたきれいな石塔で、左右に多層塔と多宝塔を従えています。北向観音の本尊出現地に立ち、700年の風雪に耐えてきた緑苔むす塔が常楽寺の由緒ある歴史を語っています。
境内には「梅楽苑」という赤い野天傘の下で抹茶や梅ジュースが味わえる風流なお茶処で梅羊羹や梅ゼリーなど上品な味わいのお菓子には、どれも季節の花が添えられていたほっと心が和みます。
二つの寺を結ぶさるすべり小道を通って鎌倉時代中期より“信州学海”の中心道場だったと言われる禅寺「安楽寺」に向かう。ここも慈覚大師円仁によって天長年間(824~834)に開かれたと伝えられ、塩田北条氏の祖・北条義政が庇護したとされ、鎌倉時代に、宋に留学し常楽寺でも修行した樵谷禅師によって信州最古の禅寺として再興された古刹です。境内の本堂の裏の杉木立の中のゆるやかな石段を登りつめると、木々の間に、日本で唯一の八角形をした国宝、木造の八角三重塔が端然と建っている。垂木、木組、彫り物、礎盤など全体にわたって唐様、禅宗様などと言われる中国の宋時代の様式で設計されている塔で、建立年代は鎌倉時代末期と推定されている。
塔に設えた連子窓や彫刻かと思わせるほど手の込んだ詰組がオリエンタルな雰囲気をつくり、華やかさを供えている。外に向かって伸びやかに広がる扇垂木と、踊るようにリズミカルな反り返った八角の屋根が、建物に躍動感を与えています。そのリズミカルな屋根を数えれば、三重ではなく四重ではないかと思うが、一番下(初重)の屋根は一層目の裳層(庇又は霧よけの類)を付けた珍しい裳層付三重塔といわれるものです。その一方で裳層の下は上層に比べて幅と高さがあり重心がくるので、どっしりと落ち着いたたたずまいは温かさと静けさをあわせ持っています。
最後は厄除け観音として昔から日本全国の人々の信仰を集める慈覚大師によって開創された「北向観音」に参ります。北向観音本堂への狭い参道沿いには観光客向けの土産屋や食事処が軒を連ね、湯川(愛染川)が世俗を拭うように清らかに流れています。飲食店はそば処や定食屋が多く、土産には黒糖風味の「厄除けまんじゅう」や別所名物の七久里煮がおすすめ。七久里煮とはワラビや干エビの佃煮でごはんのお供に最適。石段を上り切ると北向観音堂が現れます。
北向観音の本坊である常楽寺の縁起によると平安初期の天長2年(825)比叡山延暦寺座主・慈覚大師円仁によって創建されました。ちょうど長野の善光寺の南向きと向き合っていて善光寺の未来往生とこの観音の現世利益の功徳は一体のものであるところから名付けられたもので、両方に参拝しないと片詣りであるといわれている。北向きに建てられた理由は、「北斗七星が世界の依怙となるように我も又一切衆生のために常に依怙となって済度をなさん」という、観世音菩薩のお告げによるものといわれる。現在の本堂の大部分は、享保6年(1721)に建てられたもの。北向観音の清めの水はなんと温泉です。
温泉街のほぼ中心の高台にあり、石階段を上った境内からは別所温泉郷の全体が見渡せ、巨大な「愛染桂」は縁結びの霊木で映画の舞台にもなったところである。
観音堂の西方の急斜面に、「医王尊瑠璃殿」と呼ばれる薬師堂があります。温泉により病気を治す“温泉薬師信仰”を今に伝えるもので、別所は温泉によって「七つの苦から離れる」という意味から古くは「七苦離湯」と呼ばれ、「枕草子」にも「七久里の湯」として登場しています。由緒ある温泉の湧き出る湯は無色透明の単純硫黄泉で胃腸病、リュウマチなどに対する効能に加え、肌を滑らかにする効能から「美人の湯」とも言われ、多くの文人墨客に好まれてきました。川端康成はここで「花のワルツ」を書き、有島武郎は「信濃日記」をしたためました。
別所散策の仕上げは外湯めぐり。温泉街には3ヵ所の源泉があり、総湧出量毎分1050ℓ、源泉温度は平均44℃と比較的ぬるめの柔らかな温泉です。温泉街には気軽に入れる共同浴場が4か所。中心街から少し離れた別所温泉入口に、最近上田市社会福祉センター「愛染閣」が建て替えられた近代的な「あいそめの湯」。そして中心街にかつて七久里の湯とも呼ばれ、7つの外湯があったようですが、現在に伝わるのは3ヵ所。
鎌倉時代には北条義政が信濃の守護職として塩田庄に居を構えたころは“北条湯”と、吉川英治が「新平家物語」で木曽義仲が上洛の機をうかがっていたころ、愛妾、葵御前としばしば入った湯として“葵の湯”といわれ、江戸時代には上田藩主仙石氏の湯治場は、湯量が豊富なことから名付けられた“大湯”でした。「大湯」こそ別所で最も歴史に彩られた湯であり、豪壮な屋根瓦に歴史を感じる湯屋造りの建物。その前には飲泉所もあり、露天風呂があるのはここだけです。湯川に面した「大師湯」は、北向観音の近くに建ち、仏像がよなよな入浴しに通ってきた伝説や雉が湯につかり、矢傷を治したという話など高い効能をうかがい知る伝説に彩られてきました。比叡山延暦寺座主慈覚大師が北向観音建立時に好んで入ったともいわれ、浴室はレトロなタイル貼りで清潔感溢れる。
写真は、池波正太郎が代表作の一つ「真田太平気」で真田幸村がお忍びで浸かって女忍者のお江と結ばれたという岩造りの湯船が野趣豊かな「石湯」です。。傍らには池波正太郎氏による「真田幸村公隠しの湯」の碑が立つ。平成10年にリニューアルされ、石碑の前に龍のオブジェがある飲泉所には絶えずお湯が流れています。泉質は硫黄分を含んだ弱アリカリ性単純硫黄泉で肌に優しく、湯上りはしっとりなめらかで散策の疲れを癒してくれるやさしい温泉です。
石湯の隣には、江戸時代に上田藩の出屋敷、造り酒屋や湯屋を経て明治43年(1910)創業の老舗旅館「臨泉楼 柏屋別荘 」があり、小説家・川端康成はここに滞在して「花のワルツ」を執筆し、有島武郎、舟橋聖一、北原白秋や西条八十など数々の著名人も逗留したことがあります。木造4階建ての建物は千と千尋の神隠しの油屋のモデルの一つになったともいわれていました。2017年廃業となり、現在は「柏屋別荘の倶楽部」と改め、創造の場を提供する施設に生まれ変わっています。
最後に別所温泉から曲がりくねった野倉街道の峠道を登りつめるとそこはのどかな野倉の里で、そこにある「夫婦道祖神」を見る。お互いに肩に手を掛け合い、女神が男神の手を握り、目を細くして笑みをたたえている。夫婦仲が円満になると言われているらしい。「大湯地区ふれあいロード」というウォーキング道路で別所温泉と野倉の里山を一周する道も設定されています。