拓本集印帳片手に伝説の宝庫・古の信仰の道「戸隠古道」を歩く

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平安末期の歌謡集『梁塵秘抄』で四方の霊験所は、伊豆の走湯、信濃の戸隠、駿河の富士、伯耆の大山、丹後の成相とか・・・と謡われたように平安時代に修験道の霊場として開かれて以来、現在も多くの参拝者でにぎわう信仰の地、戸隠神社の周辺には、昔の参拝者が通った古道が今なおその姿をとどめています。山岳修験の道、戸隠御宮参拝道、越後道、武田信玄の軍用路などが網目のように交差した太古からの歴史が重積するのが戸隠古道です。車道となった道、焼失した道もありますが、今では歩きやすく再整備された戸隠古道はさわやかな高原の遊歩道で、いにしえの古道ウォークを楽しめます。さらに歩く楽しみを付加しているのが道中に設けられた石柱30ヶ所の拓本を集めながら古道を巡る「戸隠古道拓本集印帳」です。拓本集印帳を片手に今回は戸隠参拝古道を歩き、いにしえの参拝者も見たであろう戸隠の魅力に出合ってみることにしました。

長野駅から車・バスを利用すれば約1時間で到着する戸隠は標高1200mほどの高原に位置し、豊かな自然環境の中にあります。この自然豊かな4㎞四方の範囲に創建2000年の歴史をもつ戸隠神社五社のすべてがあり、五社を結ぶ遊歩道や参詣古道が整備されています。また一之鳥居から戸隠神社奥社までの約12km、歩きやすく整備された戸隠古道の道中に、戸隠伝説を彩るさまざまな史跡を網羅した拓本のできる石柱が30ヶ所設けられていて、その拓本を集めながら古道を巡るのが戸隠古道拓本ラリーです。

戸隠古道拓本集印帳は、石柱をこするためのクーピーペンシル付きで500円、戸隠の土産物店やそば店などで購入できます。詳細な地図に加え、史跡の開設も充実しているので読むだけでも楽しめます。利用法は簡単、石板の上に集印帳をあて、クーピーペンシルでこすると絵が浮かび上がります。ペンを横にしてこするのがコツですよ。

かつての戸隠神領となる一之鳥居苑地を起点とする古道は、中社まで78丁(約8.5km)、中社から奥社まで36丁(約4km)総計114丁(12.5km)片道約4時間の所要時間になります。石柱があるのは、中社や奥社などの五社や鏡池といった定番スポットだけでなく、戸隠伝説を彩る様々な史跡を網羅しています。また道中には、表参道の一丁ごとに建てられた里程標・町石が置かれています。当時の丁石は、埋もれてしまったり、持ち去られたりして残っているのは数個にすぎませんが、いつの時代に建てられたか定かではなく、慶長年間(1596~1615)との説もあります。一丁は109mです。写真は湯之嶺夕陽展望園地手前の古の丁石(二十九丁)です。

長野市内からは七曲経由の戸隠バードラインか淺川ループ橋経由のループラインかのどちらかを通り、戸隠方面に向かうと大座法師池に出ます。そこからさらに2.5kmほど進むと一の鳥居苑地駐車場があります。長野駅からは7番バス乗り場から奥社行で飯綱登山口で下車するといいです。※一の鳥居で下車すると行き過ぎます。ここは標高1130mです。

車止めを避けて、戸隠バードライン(県道506号)沿いに戸隠古道の道標を目印に歩きだします。

拓本集印帳片手に「一之鳥居」からスタートで、ここが奥社までの丁石の起点となります。一之鳥居は善光寺と戸隠のほぼ中間地点で戸隠神領入口に建てられました。戸隠山を遠望する名所として知られ、昭和初期までは「戸隠山風景絵葉書」の筆頭を飾っていたとのこと。

寛政年間(1790年頃)時の別当尭瑢が万代普及を願って石造鳥居を建立しましたが、弘化4年(1847)の善光寺地震によって倒壊。集積されている石は当時の石材で、松林の中に残る大きな基石がかつての鳥居の大きさを偲ばせます。明治19年(1886)、奥社参道の大木を用いて高さ11m幅8mに及ぶ壮大な木造鳥居が再建されましたが、再び倒壊のおそれが生じたため昭和60年(1985)に取り壊されました。その時の縦2.6m横1.8mの大きな神額は戸隠神社に保存されています。

一の鳥居苑地から大久保の茶屋までの道程は戸隠バードラインから少し離れた山間の道となっていて、鳥のさえずりなども聞こえ気持ちよく歩くことができます。しばらく道なりに進むと、大久保の茶屋の横に出ます。案内板にもあるように一旦戸隠バードラインに出て歩くことになります。なお案内板の足元に六丁(654m)の丁石が置かれていました。
この場所は柏原(現在の信濃町)からの下道と善光寺から戸隠表参道が交差する昔の交通の要所で、茶屋が2軒ありました。戸隠神社へ参拝する人たちは、ここで名物の「力餅」を食べて、元気を付けて戸隠へ向かったと云います。茶屋は昭和15年(1940)に閉店してしまいましたが、戸隠バードライン開通に合わせて開店したのが大久保の茶屋と大久保西の茶屋の2軒のそば屋です。
大久保の茶屋からは戸隠バードラインに近づいたり、離れたりしながら戸隠古道は続きます。30分ほどで二十六丁石の先、祓沢の手前に戸隠山を一望できる戸隠展望苑があります。手前の広大な農地にはそばが植えられていて、9月上旬から中旬までは満開のそばの花の向こうにギザギザした険しい山頂の戸隠山を望むことができます。

戸隠展望苑の近く、一之鳥居から二十八丁(約3km)のところにある清流が幾筋も近くを流れる「祓沢」は、古くからの大道が交わる交差点でした。旧参道・戸隠古道はここで中院道、宝光院道に分かれることから分岐点に「右中院御宮道、左宝光院御宮道」「左宝光院迠十二丁、従夫(それより)中院御宮江通ぬけ」と書かれた2本の道標が立つ。道標の梵字と院といった佛に関係のある文字が削り取られているのは廃仏毀釈の影響です。

ここは宝光社、中社、奥社のどこへ行くにも必ず通らなければならない場所なので、ここに関所が置かれたこともあり、往時修験者に山札を渡した場所でもあります。またかつて行者たちはこの沢でみぞぎをして身を清め、戸隠山に向かったといいます。なお祓沢手前の「にごり水」は、飯縄山の伏流水が地表に湧き出た場所で、その水を使った茶屋や馬屋があったと伝わります。

旧参道(戸隠古道)を小鳥のさえずりを聴きながら宝光社方面へと向かう途中“戸隠展望苑”という標識が現れます。丁度三十七丁の丁石が置かれた分岐点を湯ノ嶺夕陽展望苑への矢印の方向へと左折して進むと涼やかな広い草原の苑に至ります。丁度戸隠そば博物館“とんくるりん”の裏手にあたる「湯之嶺夕陽展望苑」は、旧戸隠十三谷の一つ湯之嶺山付近にあり、嶺々を見渡す眺望が素晴らしい。戸隠そば博物館“とんくるりん”からもこの展望苑に上ってくることも可能です。

右に戸隠連山、左に荒倉山。中央彼方に白馬・鹿嶋槍ヶ岳の雄大な山々を一望する戸隠有数のサンセットポイントです。特に春・秋の一定期間、真っ赤な夕陽が日本の屋根・北アルプスの頂きに吸い込まれていく姿は実に感動的とのこと。荒倉山は能『紅葉狩』の舞台。鬼女紅葉伝説を伝える岩屋があります。湯之嶺はかつてにおい立つ鉱泉が湧き出る地でもあり、瘡の効用があり、容器に鉱泉を組み入れていく人も見受けられました。

古道に戻り先を進みます。丁度丁石(四十二丁)、古道と林道との合流点の古道脇に「一ノ午王橋供養塔」があります。橋供養塔は古い橋を供養するとともに新しい橋の安全を祈願したもので、橋の架け替えの際に建立されます。この供養塔は文化7年(1810)この北を流れる男鹿沢「一ノ午王橋」を石橋に架け替えた際のもで、高さ180cm、幅80cm。中央に「橋供養石」、その左右に「右うえの村道左ぜんこうじ道」と刻まれ、道標も兼ねています。左側面77には、「文化七庚午年七月日造作之徳善院順寛 村越義光」と刻まれている。中央には梵字が彫られていたが、明治の廃仏毀釈の際に削られている。まお一ノ午王橋は現存していません。周囲には近年復元された丁石(四十二丁)が立っています。

道隔てた隣接する小高い丘の上に、巨石で造られた塔が古道脇の林の中にあります。この古塔は「熊野の塔」と呼ばれてきました。段丘をもたない台座の上に直接屋蓋が載っており塔身を失っていると思われるが、それでも高さが170cmほどあります。室町末期から江戸時代初期に作られたと云われ、熊野信仰を伝承する宝篋印塔とも伝わるが詳しくは不明とのことです。

一ノ午王橋供養塔からしばらく車道を歩き四十三丁石を越えて進むと山道への分岐の標柱があります。山道を進むと再び車道に合流し、左に進みます。宝光社地区を30分ほど歩くと戸隠バードライン(県道506号)にでます。宝光社方面に進むと右手に石段が見えてきます。上ると幽魂社碑と宝篋印塔が置かれています。安永9年(1780)に戸隠では、雪舟(そり)事件と呼ばれる宝光院衆徒と中院宗徒により争いが起こりました。薪の切り出し運搬の権利などに関する争いで、宝光院衆徒は別当へ抗議のため宿坊を出て、寺社奉行などに提訴しましたが最終的に敗訴し、宝光院に戻ることもできず追放となり、他国で亡くなったといまれます。この幽魂社碑は衆徒17坊の霊の帰還を祈って明治14年に建立されたものです。

宝光社地区入口の広場奥、「そばの里二番館」の隣にあるのが、現在約50体、さまざまな事情かで持ち寄られた仏像が合祀されている地蔵堂です。木造役行者椅像、木造学問行者座像は江戸時代初期、木造地蔵菩薩半跏思惟像も江戸時代前半のものでかつて宝光院本堂の置かれていた仏像か。地蔵堂正面、白面の石仏が主尊の地蔵菩薩像で、天保3年(1832)の縁起には、地震で自然湧出した岩に地蔵尊の姿を見た弘法大師がこれを刻み開眼供養したとあります。半身が地中に埋められているが、天変地異が起こるとき、地中からせり出してくると伝わり、「笹地蔵」「北向き地蔵」「延命地蔵」とも呼ばれます。

地蔵堂前には元治元年(1864)奥社に建てられた、江戸後期、長野市平林の俳人・蘭喬の句碑『声なくて大念仏や苔の露 墨林庵 蘭喬』が移されています。高妻山曼荼羅石に面し、ひたすら念仏を黙誦し一念凝って遂にその絶壁に道(高妻山大澤通り登山道)を通じたという先達者仏心(俗名武津信)の徳を称え詠んだものです。

五十丁のあたりから戸隠神社中社の門前となり、県道沿いの院坊旅館や蕎麦店の家並みを見ながら、坂を登ります。写真の左、武井旅館の前にも蘭喬の『神つよの明けるや花の明かり先 蘭喬』の句碑があります。また写真の手前奥田旅館の場所にはかつて宝光社の随神門がありました。戦後間もない昭和20年(1945)8月20日に発生したこの辺りの大火で焼失してしまいました。

さらに坂道を上ると宝光社の石段が見えてきます。中社のご祭神である天八意思兼命の子で信濃・阿智氏の祖先神とされる天表春命を祀る「宝光社」は、開拓学問技芸裁縫の神であり、安産の神また女性や子供の守り神として御神徳があるといわれます。81段の石段を上れば鳥居が見えてきます。

鳥居をくぐって杉の巨木に囲まれた193段の苔むした石段を登ると、神仏習合時代の面影を残す荘厳な入母屋造の社殿が現れます。階段の左右に並ぶ杉の木は美しく、一本、一本がご神木のようです。入母屋造の社殿が大きく、向拝に施された彫刻が見事な宝光社は天暦3年(949)に奥社の相殿として祀られ、その後康平元年(1058)に現在の地に遷座されました。現社の社殿は文久元年(1861)に改築されたもので、間口は5間、奥行き7間、屋根は入母屋造、妻入、銅板葺です。

宝光社から杜のなかの道をぬって中社の鳥居脇にいたる涼やかな山の小道は、一般の道とは区別され「神道」と呼ばれてきました。神道は宝光社と火之御子社、中社の三社をつなぐ森の中の道で、神々がここを通って行き来しているのではないかと思わせるような趣のある道です。

宝光社の社殿の横から木立繁る山道を行くと「伏拝所」の碑に出会います。文字通り戸隠参拝者が遥か奥院を伏し拝んだところと云われ、急坂を登れない老人などがこの場所で戸隠山を遥拝し、今来た道を引き返したと云います。現在は樹木が生い茂り奥社を遠望することはできませんが。

室町時代の古書、戸隠に関する縁起本を整理・編集した『戸隠山顕光寺流記』に「御正体飛来の処、伏拝と称す」と記しています。天暦年中(950頃)阿智の祝部(神主)が、宝光社の御祭神・天表春命を奥社に合祀しました。後冷泉天皇の御代、康平元年(1058)8月26日、本院(奥院)から48丁(約5.45km)離れた伏拝の地で、大樹の梢に光を放つ御正体が出現。その時そばにいた12~13歳の女の子がもだえ苦しみ、人々が訊ねると「私は当山三所権現の先駆け」で左方に立つ地蔵権現です。奥社は女人禁制にして、冬は登拝が困難である。この地に、四季を通して老若男女がお参りできる社を建て、我を安置せよ」と申されました。里の人々は、御神意によって、宝光社を建立し、御正体をお祀りしたと伝えています。堂ははじめ「福岡院」と呼ばれ、後に「宝光院」といわれるようになりました。そして御正体がやってきたところを伏拝所というようになりました。

すぐ横に建つ「小鳥の声放送記念碑」は、昭和78年(1933)NHK長野放送局がここ伏拝から小鳥の鳴き声を初めて全国に向けて実況放送。戸隠が野鳥の宝庫として一躍全国に知られるようになったのです。

少し先に進むと「火之御子社」へという標識があり、右に逸れていきます。林の中を3分ほど歩くと火之御子社の境内に到着です。戸隠バードラインから来ると鳥居は石造りの鳥居です。「火之御子社」は中社と宝光社集落のほぼ中間に位置する神社で、創建は承徳2年(1098)の創建と伝えられ、草創期から現在まで、神仏習合の時代にあっても純然たる神社として祀らえてきました。祭神は天岩戸に隠れた天照大神を誘い出すため、神々の酒宴の輪の中で艶やかな舞を披露した女神様・天鈿女命(あめのうずめのみこと)をお祀りしています。舞楽芸能の上達、縁結び、火防を祈ります。

現在の社殿は明治17年(1884)に再建されたものですが、平成6年(1994)に屋根や土台の大修繕が行われ、現在に至っています。境内には樹齢500年を超える夫婦の杉(二本杉)や、西行法師が木登り中の子どもたちと歌を交換してやりこめられたと伝わる西行桜があります。

神道に戻り中社を目指すこともできるのですが、今回はそのまま県道36号で中社に向かいます。院坊旅館やそば処仁王門屋、戸隠そば山口屋の並ぶ中社参道、旧中社公会堂(現ホテルRITA戸隠とフレンチレストランawai)の前の三角地に建つのが、高さ3.9mの石造「納経供養塔」です。かつて日本各地の霊場をめぐる行者たちが戸隠山に参拝し、法華経を唱え、その経典を神前に奉納。それら貴重な文物の破損、散逸を防ぐため戸隠山第61代別当・尭瓊が石塔を建立し、その中に経典を納めました。法華塔とも呼ばれ、文化9年(1812)の建立当時は、中院境内の三本杉の奥にあったといいますが、経典を納められていたため明治初期の神仏分離の際、社地からこの地に移されました。廃仏毀釈後には、津島社が鎮座し、現在は「つしまさん」とも呼ばれています。

門前の坂道を登ると、戸隠神社中社参道の突き当り正面に大鳥居があります。中社」は天岩屋にこもった天照大神を、太々神楽を創案し再び外にお誘いした知恵の神様・天八意思兼命を祀る。太々神楽は岩戸神楽と呼ばれ、戸隠の地に今でも受け継がれています。ご神徳は学業成就、商売繁盛、開運、家内安全とされている。

境内は、樹齢800年を超える三本杉や古木に囲まれ厳かな雰囲気です。大鳥居をくぐった先に本殿に向かう石段があります。

樹齢900年を超える杉の木を抜けると、入母屋造の迫力ある中社があります。拝殿横に流れ落ちる霊性豊かなさざれ滝水音が静かに響きわたる中社は、寛治元年(1087)、奥院と宝光院の中間地点に建立され、その後何度か建て直されています。寛永5年(1852)に造営された社殿は、昭和17年(1956)戸隠の大火にため社殿が焼け落ち、31年(1956)に現社殿が再建されました。妻入りの向拝唐破風付きの社殿で、外陣の中央に神楽の舞台が作られていて、毎年数々の太々神楽が奉納されています。社殿天井画に描かれた巨大な龍は、幕末から明治初期に活躍した川鍋暁斎の作で平成15年(2003)に復元されています。

西参道から再び戸隠参拝古道で奥社を目指します。
400~500m先に、もとは宝永2年(1705)に建てられた間取り3間×3間の奥社遥拝堂があった「女人堂跡」があります。堂内に女人禁制についての数々の掟が掲示されていたといいます。戸隠古道は女人堂の前で奥院道と越後道に分岐します。「右えちごみち、左於くいん」の碑は頭部の梵字部が廃仏稀釈によって削られています。女性たちはここから先の奥院道に足を踏み入れることは出来ず、堂内で遥拝し、今来た道を引き返すか、越水ヶ原・女人結界碑・念仏池とたどる越後道にでるしかありませんでした。
越水ヶ原入口を過ぎたところに「比丘尼石」があります。これは、女人禁制の掟を侵して入ろうとした尼僧が石になったといわれるものです。
そば茶屋極楽坊を過ぎると修験道別格寺公明院に隣接してあるのが、宝篋印塔をぐるりと祠が取り囲む「釈長明火定所」と呼ばれるところで、果敢な捨身供養を遂げた行者・釈長明を祀ります。長明は25歳で無言の行に入り、法華経を誦し、3年間横になって寝ることなしという荒行を積むなど傑出した修行者でした。「われ一切喜味菩薩なり、身を焚き、兜率天に上らんとす」と薪の上に座し、火中で大往生を遂げたと云い、永保年間(1081~83)のことと伝わる。
塔の周りの祠は日本六十六国の一之宮の石祠。文化7年(1810)戸隠栃原大昌寺住職瑞応が法華経66部を書写、小箱に入れ地中に埋め、その上に一基ずつ祠を建てました。昭和に入り女性修験者姫野公明(修験道別格寺公明院を創建)が寄進者を募り石祠を整備供養しています。

さらに50m程先に苔むした三体の石塔が古道沿いに並んでいます。両側は応永の年号が刻まれた宝篋印塔、中央かすかに「児」の字が読み取れる碑が親孝行息子智悟の霊を供養する応永6年(1399)建立の「稚児の塔」です。妻の不義密通を疑った夫は、妻の留守中、男から届いた妻宛の書状を受け取る。字が読めない父は戸隠山東光院で修行中のわが子智悟を呼び寄せ書状を読ませます。信じがたい義母のスキャンダル、艶文を手に、智悟は悩むが「義母の難儀を救い、父の安堵を願うためなら、神仏もお咎めすまい」と内容を時候の挨拶と偽り読み聞かせたと云う。夫は妻を疑った己を恥じ、妻は不倫の罪業を悔い、ともに剃髪。子は孝心のためとはいえ、父を欺き、仏お教えに背いたとして、東光院住職への道を棄て、一宇の庵を建て生涯を送ったと云います。

稚児の塔を過ぎて少し進むと分岐点に出ますので右の道を進海ます。左に行くと戸隠植物園です。ゆるやかな坂を登りきると左手の視界が急に開けて、戸隠山が一望できる場所があります。

さらに進むと県道36号に出ます。中社から約2km、旧参道が県道と交差するあたりが「奥社参道口」です。

続きの「小鳥の囀りに包まれる緑眩しい神話の里戸隠。奥社参道を歩く」はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/11945

2015年に誕生した「妙高戸隠連山国立公園」。この魅力を体感できるのが平成3年(2021)10月に一部開通したあまとみトレイルです。長野駅~戸隠~妙高・笹ヶ峰~野尻湖~斑尾山頂を結ぶ総延長86kmの歩いて楽しむロングトレイルです。名称のあまとみは西の雨飾山の「あ」、東の斑尾山の「ま」、南の戸隠山の「と」、北の妙高山の「み」と、この地域を代表する山の頭文字をとって名付けられました。斑尾山頂ではお隣のロングトレイル「信越トレイル」(総延長110km)に接続します。

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