越後新潟で「日本のミケランジェロ」石川雲蝶の作品をめぐる

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新潟県・魚沼地方といえば、誰もが知る米どころ。旨い米を育むこの地は、奥深い歴史と文化を秘めた旅心を刺激してくれるところでもあります。この地を訪れたなら必見なのが“越後のミケランジェロ”とも呼ばれる幕末の名匠、石川雲蝶の作品群です。その造形と色彩の迫力に誰もが息をのむ一つ一つ作品は、それのみならず空間全体を演出しています。今でいう空間プロデューサーだったいう石川雲蝶が時空を超えて仕掛けた空間マジックに魅了されに出かけます。

文化11年(1814)江戸の江戸の雑司ヶ谷で生まれた石川雲蝶源正照は、本名は石川安兵衛いい、江戸彫りの一流派・石川流の本流門人であり、20代で奥義を極め、すでに彫物師として名を馳せていました。30代前半の頃、三条の金物商で法華宗総本山・本成寺の世話役であった内山又蔵との出会いで越後三条に入ります。「良い酒とノミを終生与える」が、越後入りを決めた理由だとか。越後三条を拠点に魚沼をはじめ、近隣各地で創作活動を始め、後に内山氏の世話で三条の酒井家に婿入りし、名実ともに越後の人となります。ひとたびノミを握れば“彫りの鬼”と化し、作品と向き合った雲蝶。その妙技と才能は木彫りにとどまらず、石彫や絵画にまで及ぶことから「日本のミケランジェロ」と称えられています。写真は西福寺境内に立つ石川雲蝶像

関越自動車道六日町ICから車で約13分、最初に訪れる八海山 龍谷寺は、創建年は不詳意ですが、往古、霊峰八海山信仰の修験道場六萬寺として栄えていました。その後16世紀初めに曹洞宗に改め、龍谷寺と改称し現在に至ります。慈雲閣 観音堂は、著名な建築家・大岡実博士の設計によって、古代インド「グプタ王朝」の洋式が取り入れられた建物で独特な雰囲気を放っています。観音堂左手の渡り廊下を進み、本堂へ。

本堂に入ると透かし彫りの欄間彫刻が奥まで続いています。これらは、石川雲蝶作品で、中国の想像上の動物とされる「獏」や「麒麟」、雲蝶が好んだという「唐獅子」と「牡丹」が彫られ見逃せない逸品です。

船子得誠和尚の行履を伝える様子が表現されていますが、欄間の枠から飛び出す勢いのある彫刻は、技術と芸術性の高さを感じ取れます。

次は近くの穴地地域(南魚沼市)の鎮守である穴地十二大明神へ。この神社には向拝の部分に龍と二頭の獅子が描かれているほか、手挟みには竹と虎、松と鷹と雀が彫られています。

また欄間には源頼光の大江山の酒呑童子退治から、洗濯女に出会う場面と木渡の場面

源頼政の鵺退治が未完成のまま遺されています。

関越自動車道小出ICから車で約5分、次は室町時代後期の天文3年(1534)芳室祖春大和尚によって開山された曹洞宗・赤城山西福寺へ。本堂は享和2年(1802)に再建されたもので、本尊の阿弥陀如来を祀っています。

まずは第一山門(赤門)から参道を進むことにします。赤門の両脇にあるのが石川雲蝶作の石彫で、右側の「火除地蔵」は、この村を火災から守っています。左側の「禁葷酒の戒壇石」は、禅宗の山門に立つ戒めを説く石碑です。「葷」とは、にんにく、にら類のことをいい、「葷や酒を食した直後に山門に入ることを禁ずる」という意味で、山内の清浄を汚してはならないと説いています。

 

第二山門(白門)の正面から奥には花頭窓を設えた本堂が見えます。

参道を進むと、右手に石川雲蝶像、左手に鐘楼があります。鐘楼は寛永3年(1850)に建立され、彫刻は熊谷の源太郎の作です。源太郎は雲蝶と並ぶ彫刻の名手で、47歳の時雲蝶と共に越後入りし、三国峠の三国権現社において金剛力士像の競作をしたと言い伝えられています。梵鐘は新潟の土屋忠左エ門の鋳造で、三十三観音の金鍍金の彫刻が見事に施されています。まら「勅許」の文字が刻まれていることから戦時供出時に「供出除外」と指定された名鐘です。

さらにその奥にあるのが大浦開山堂です。当時20代であった二十三世蟠谷大龍大和尚の発願よって建立され20年の歳月を費やして安政4年(1857)に落成しました。建築様式は鎌倉時代禅宗仏殿構造で、屋根は茅葺き二重層、上層部は入母屋造り、唐破風の向拝を有しています。

正面に有する唐破風の向拝もは、雲蝶による烏天狗や鳳凰などの迫力ある妖怪たちが彫られています。

本堂の中に入ると石川雲蝶の描いた襖唐紙の画は、開山堂の彫刻とともに県の有形文化財に指定されていまし、写真の書院障子(三保の松原)では、雪国の山間地方では見ることができない海辺の美しい景色を、雲蝶は座敷の障子越しに再現して見せました。

代表作がある開山堂に一歩足を踏み入れれば、その造形と色彩の迫力に、誰もが息を飲みます。開山堂の中には当西福寺の御開山芳室祖春大和尚と曹洞宗の御開祖道元禅師が正面にお祀りされています。また三間四方の吊り天井から欄間、壁面には石川雲蝶の終生の大作ともいえる素晴らしい彫刻、絵画、漆喰細工の作品で埋めつくされていて、日光東照宮を連想させることから、越後日光開山堂と呼ばれるようになっています。それらは開祖道元禅師の話を元に作られたストーリー性のある作品が並んでいます。

開山堂の天井いっぱいに透かし彫りで施された大彫刻「道元禅師猛虎調伏の図」は雲蝶の終生の大作ともいわれ、その迫力ある彫刻が岩絵の具で色鮮やかに塗り上げられ、安政年間の華やかさをそのままに伝えています。サザエさんのオープニングにもでてきたことがありました。

題材は修行中、虎に襲われそうになった道元禅師はしゅ杖を投げつけ岩に座してお経を唱えるとしゅ杖は龍となって虎を退治した物語を表現しています。虎と龍の目には当時高価であったギヤマンを嵌め込み、木の奥までのみを入れる深彫りによって立体感が生まれます。またいたるところに遊び心で小動物を描き込んでいます。(亀、鯉、雀、猿、鷲等)

正面の欄間透かし彫り「道元禅師と白山大権現」は、道元禅師が中国の宋で修行を終えて日本へ帰国する前夜、経典「壁岩録」を急いで写経していると白山権現が一老翁になって現れ、写経を手助けし、帰国の乗船に間に合うように加護している様子を遠近法を用いた技法で部屋の中を立体的に奥行き深く表現しています。机の前に燭台、右手前に布袋様の置物とその奥に火鉢に湯釜が彫られています。

その左右の欄間にはうかばれない女中の霊を鎮めるものや、道中腹痛になった道元禅師を稲荷大神が助ける題材ものが描かれています。幽霊の女中さんの拝む両手の細かいこと。

開山堂内階段両脇に立つ鬼退治の仁王像は高さ2mあまりのケヤキの一本彫です。全身に木目が波打つ様は今にも動きだしそうな迫力がみなぎっています。

最後に向かったのは関越自動車堀之内ICから車約3分の曹洞宗針倉山永林寺です。永林寺は林泉庵第四世竹岩全虎和尚を招いて開山第一世とし、作州津山藩祖松平忠直(家康の孫)、越後高田藩主松平光長(忠直の子)の位牌を安置し、葵の紋章を許されたお寺です。幕末の住職であった弁成和尚と雲蝶は酒を愛した知己であり、「雲蝶が勝ったら金銭を払い、雲蝶が負けたら永林寺の本堂いっぱいに力作を手間暇惜しまず制作する」という依頼者である和尚との賭け事に負けて制作したもので、1855年(安政2年)永林寺を訪れ、雲蝶が13年もの歳月をかけた100を超える作品が本堂に並んでいます。

本堂外陣廊下正面寺号額下の欄間には龍天護法善神「雲水龍」は、雲と水の間を駆け巡る龍の迫力ある姿が彫られています。

本尊左手の欄間に施された笛や太鼓などの楽器を奏でている華麗な姿の天女(飛天)の透かし彫りは、目細、鼻高、桜色の肌という当時の美人の要素を取り入れていて、モデルは雲蝶の憧れた魚沼の女性とされています。笛の穴に添えた指はしなやかで折れそうなくらい細く、木を細かく彫る高度な技が伺えます。天女たちはそれぞれ表情豊かで、まとっている衣装は手間をかけて岩絵の具を塗った赤と青の組み合わせが鮮やかです。

向かって右側の太鼓をたたく二人の天女の欄間には背中が彫られていて、片方が既婚、片方が未婚と言われています。背中にかすみがかかり、ちょっと隠れた部分があり、それによってさらに色気が増してセクシーです。なまめかしく清らかな天女像は、一説には雲蝶の想い人の面影を写したものともいわれます。ダイナミックな西福寺開山堂とは一転、雲蝶の繊細な感性を物語る作品です。

金堂天井画は「蛇身鳥物語」で2枚の欄間と1枚の板絵からなる3部作です。源頼政が蛇身鳥を成仏させるシーンが力強く描かれています。

石川雲蝶の彫刻めぐりを楽しみましたが、このほかにも日本のミケランジェロと称された石川雲蝶は県内各地に作品を残しています。機会があれば、さらにめぐってみたいものです。

 

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