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島根県東部に位置する安来。中国山地を源流として中海に注ぐ飯梨川(旧名:富田川)、伯太川を中心に開けた穀倉地帯の安来平野の標高約190mの月山に戦国時代に出雲全域を支配下に置いた尼子氏の居城・月山富田城があります。攻め口が少なく複数の防衛ラインで敵を防いだ難攻不落で知られた要塞で、名勝・毛利元就でさえ落とせなかったといいます。尼子氏のあとには、毛利氏、吉川氏、堀尾氏と城主が変わり、慶長16年(1611)に堀尾吉晴が松江城を築城し本拠を移すまで、戦国時代から江戸時代初めまで山陰の政治経済の中心でした。日本遺産「出雲国たちの風土記」の構成文化財にも選定されている日本100名城:月山富田城を歩き、戦国大名尼子氏の栄華盛衰に思いを馳せます。

月山富田城は標高183.9mの月山に文治元年(1185)頃、出雲源氏の祖・富田氏によって築かれ、京極氏に支配権を奪われてからは京極氏の流れを汲む一族としてその守護代・尼子氏が在城。のちに尼子氏は主家・京極氏を追放して戦国大名となり、経久・晴久・義久三代で山陰・山陽十一州の太守となりました。銀山と港を支配し、古式製法の「たたら製鉄」で財をなした財政力をうかがい知ることができます。永禄9年(1566)尼子氏滅亡後、毛利氏の山陰地方支配の拠点となり、吉川広家によって主要な箇所に石垣を築き、瓦葺きの櫓や土塀を建てるなど、中世城郭から近世城郭へと大きく変貌し、その後堀尾吉晴が松江城に本拠地を移すも支城として整備されましたが、元和元年(16159一国一城令により廃城となります。

城は月山を中心に、飯梨川に向かって馬蹄形に伸びる広大な山城です。山全体を活用した城の面積は約70万㎡にも及び東京ドーム約15個分。山頂に主郭部を設け、尾根上に大小多数の曲輪を配した複郭式山城で、北麓の菅谷口からの大手道、富田橋を渡った正面の御子守口からの搦手道、南麓の塩谷口からの裏手道の3方面からしか攻められませんでした。すべての進入路は山腹の山中御殿平に通じ、城内郭の下段が落ちても中段の山中御殿で防ぎ、そこが落ちても主山の月山に登って防ぎ、頂上には堀を築き守りを固めるという複数の防衛ラインを持ち、一度も落城しなかった難攻不落の城です。登城口から山頂まで歩いて片道約1時間で散策路は3コース。大規模な石垣「千畳平」や、石垣や虎口が残る山中御殿跡、詰所の建物を復元した花の壇など見どころも多いです。

月山富田城のふもとにある歴史資料館は、安来市の古代~近世の出土品や歴史的な資料を展示。もちろん月山富田城に関するものもありので、城跡めぐりに必要な知識とマップを入手します。御城印もここで販売されています。

ここから本丸までの登山道は七曲りなど急傾斜の道も整備されていて歩きやすく、途中、寺などに立ち寄っても1時間30分あれば本丸に到着します。頂上からだけでなく、馬乗馬場や千畳平などからの眺望も素晴らしい。道の駅広瀬・富田城裏から緩やかな登城道を上っていきます。本来の登城口は菅谷口、御子守口、塩谷口の3方面からですので整備された歩道となります。

歩き始めてすぐに尼子(塩谷)興久の墓が道端に佇んでいます。興久は経久の三男で、当時の尼子氏の主筋である大内義興の「興」の字を授けられています。その後弱体化した出雲源氏の嫡流・塩谷家の名跡を継ぎ西出雲の統治を任されるも経久に対して反乱を起こし自害しました。

馬乗馬場は城下町に面した北西に伸びる幅10m~20m、長さ約140mの長大な曲輪で、馬の調錬場であったと伝えられる。広瀬の町がよく見渡せます。

左手に馬乗馬場を見てすぐ右手に千畳平があります。最も城下に面している曲輪のひとつで、斜面に張り出しを持つ大規模な石垣が築かれています。搦手道の御子守口の正面に位置し、城兵集合の場所でした。張り出しの上には櫓が建てられていたと考えられています。

北端には尼子神社が建ち、

太鼓壇は、当時時を知らせる太鼓櫓があった場所とされ、尼子時代には太鼓を打ち鳴らし時を告げ、非常時には家臣に合図を送り、兵士たちを招集する場所でした。現在は、尼子経久が毛利氏に敗れたあと、尼子氏再興に尽力した山陰の麒麟児の異名を取る尼子三傑の一人、山中鹿介幸盛の銅像が建立されています。山中鹿介は三日月に向かって「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と祈った逸話は有名です。まだまだ鹿介と同じポーズをとる余裕があります。

花ノ壇(宗松寺平)は、大手道と搦手道の間、山中御殿平の正面、一段下に位置します。発掘調査で見つかった二棟の建物跡を復元整備を行い主屋を休憩施設、侍所を管理棟としています。城跡のほぼ中央に位置し、花がたくさん植えられていたことから名付けられました。当時は薬草栽培のほか、政務を司る建物があったと言われています。花ノ壇は敵の侵入を監視できることや、山中御殿との連絡が容易なことから、指導力のある武将が暮らしていました。花ノ壇には多くの建物跡が発見された南側とほとんど見つからなかった北側とに分かれていて、南側は武将の生活の場、北側は戦の時の兵士達が待機する場として利用していたと考えられます。戦うための工夫がここにもあり、敵の侵入を防ぐため、周辺の道はあえて回り道をさせるような造りになっています。

山中御殿平は月山中腹にある、城主の居館があったとみられる場所で、その規模は3000㎡と周囲を石垣に囲まれた広大な曲輪です。視界が急に開けたと感じためここが本丸(終点)かと錯覚してしまいますが、ここからが本番です。写真は花ノ壇から月山と麓の山中御殿平を望んだもので、手前から直径3m深さ5mの軍用大井戸、石垣を積み上げた山中御殿平、その奥の月山頂上部に向かう樹林に覆われていない道が七曲りです。

この辺りから石を用いた防御拠点が増加していきます。中世時代までの自然の地形を利用した「土の城づくり」から徐々に近世の「石の城づくり」へと変化していきます。尼子氏の後に入城した吉川氏、堀尾氏によって、石垣をはじめとする石の防御拠点が増えていったと考えられます。特に吉川広家が築き始めたものだとされ、朝鮮出兵から帰った後、さらに石垣うを充実させました。写真は菅谷口横の雑用井戸

月山富田城には3つの登り口がありますが、山中御殿平が菅谷口、塩谷口、大手口という主用通路の最終地点ともなっていて、最後の砦となる三ノ丸、二ノ丸、本丸に通じる要の曲輪として造られました。まさに山中御殿平は富田城の心臓部と言えます。周囲には高さ5m程の石垣や、門・櫓・塀などを厳重に巡らせることによって敵の侵入を防いでいました。大手門は高さ5m、幅15mあり、押し寄せる敵を押し返したと伝わりますが、崩落して現存しません。この大石垣の下に軍用大井戸があります。

大手道の菅谷口から山中御殿平に入る虎口は石垣で築かれ、直角に曲がっています。

写真の裏手道の塩谷口も石垣で築かれ、左右に土塁を配した防御拠点「虎口」。左右に折れて登らないと入れない道幅の狭い一本道で、侵攻時の敵は一列にならざるをえません。そこへ土塁の上から待ち構えていた兵が敵を攻撃します。実践的な城として評価を受けている場所です。

御殿平の平地の奥にある相坂階段から七曲りへ

最大の難所である七曲りと呼ばれる本丸に至る急傾斜の道を登っていきます。度々侵攻を受けた月山富田城ですが、「七曲り」から先は、廃城になるまで一度も侵攻を許さなかったそうです。麓から七曲り入口まで約30分です。

途中には、小さな曲輪が点在し、かつては迎撃のための兵を配置する場所でしたが、現在は休憩ポイントとしてひと息つきながら山頂を目指します。七曲りには大小合わせて500の曲輪があったと言われ、途中には軍用井戸の山吹井戸があります。

七曲りを登り切ったところにあるのが袖ヶ平三ノ丸の石垣群で、三ノ丸とは石垣で隔てています。西方を監視する櫓があったと伝わります。

急峻な月山の山頂部には本丸、二ノ丸、三ノ丸などの大きな曲輪が連なっています。ここからの眺望は素晴らしく、中海、島根半島、弓浜半島といった、当時の交通・経済・軍事の面で重要な地域が一望できます。戦の際、遠くを見渡せる月山富田城は敵の動きを早期に察知できたため、兵の配置などを適切かつ早期にできたと思われます。七曲りを登ると眼前に現れる石垣を上がった曲輪が三ノ丸。幅約30m、長さ約100mあり、段築石垣が築かれていて吉川時代のものと考えられています。戦時には石段の段状を多くの兵が通路として利用したり、敵を待ち構えたりするために段状に石垣を積んでいました。またわざと曲げられた入口通路も敵の侵入を困難にするための工夫です。

二ノ丸では水や食料を蓄えていたとされ、二ノ丸と本丸の間には敵の侵攻を防ぐために堀切があります。写真は本丸から堀切越しに見た二ノ丸。

麓から約1時間、二ノ丸から一度堀切におり、そこから登って「本丸」に到着です。月山最高所(吐月峰)に位置し、別称は“甲の丸”とも言われます。二ノ丸とは深さ7~8mの堀切で仕切られています。写真は二ノ丸から見た本丸

 

山中鹿介幸盛を偲ぶ記念碑が建立されています。

奥には出雲国たたら風土記にも記載される大国主命を祀る勝日高守神社が建立されています。平景清が月山に築城する折、山麓の富田八幡宮に移した里宮に対する奥宮にあたります。

帰路は七曲りから月山軍用路で山中御殿平に戻ります。

相坂階段からの登城道と月山軍用路の合流地点に、堀尾家お家騒動の首謀者として処罰された堀尾河内守・掃部(一説では勘解由)父子を供養する親子観音があります。堀尾家お家騒動とは、幼少の3代忠晴を廃し、堀尾吉晴の娘婿堀尾河内守が自身の息子(勘解由)を擁立しようとしたお家乗っ取り未遂事件。

山中御殿平に戻ってきます。

山中御殿平からは赤門のある御子守口方面に下っていきます。途中には堀尾吉晴の墓があります。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの功績により、浜松12万石から出雲・隠岐2国24万石の領主となった子の忠氏とともに富田丈城に入城しました。新たな居城として松江城を築くなどの業績を残した後、没後は巌蔵寺の境内に埋葬されました。じのあたりは御茶庫台と呼ばれ、巌蔵寺の奥、西側最下段に位置し、飯梨川に面しています。

傍らには山中鹿介の供養塔も佇んでいます。慶長7年(1602)堀尾吉晴の御内儀(妻)によって遺徳を偲び建立されました。

御子守口にある巌蔵寺は、真言宗の寺院で睡虎山と号し、聖観音を祀ります。神亀3年(726)聖武天皇の命により行基が開基したと伝わります。もともと月山の南にある高木山に鬼子母神を祀る御子守神社とともにありましたが、佐々木義清が城内に移したと伝わります。

御子守口にある赤門

月山富田城の城下町は富田城廃城後も存続していましたが、寛文6年(1666)の大雨による洪水で川底に埋没しました。しかしながら月山富田城と飯梨川を挟んで広がる広瀬の町は江戸時代初期の寛文6年(1666)松江藩主・松平直政の次男・近栄が3万石を分与され立藩した広瀬藩3万石の城下町が広がります。飯梨川沿いの三日月公園には、尼子初代城主の尼子恒久像が立ちます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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