源氏物語の掉尾を飾る『宇治十帖』の舞台として名高い京都府宇治。心地よくリズムを奏でる宇治川の瀬音、馥郁と漂う新茶の薫り、そして西方浄土を思わせる寺院……紫式部が眺めた原風景が今も変わらず迎えてくれます。『源氏物語』宇治十帖に描かれる宇治の明星山 三室戸寺。宇治十帖のヒロイン・浮舟の念持仏を祀ることから、境内に浮舟之古跡碑が立つ源氏物語 宇治十帖ゆかりのお寺です。「三室戸寺」では、6月上旬から7月中旬、幻想的なアジサイが演じる紫絵巻と共に1000年前のラブストーリーが、現代に甦ります。
三室戸寺は明星山麓に位置する西国三十三所観音霊場第10番札所。奈良時代の宝亀元年(770)光仁天皇の勅願により創建。明星山と号する本山修験宗の別格本山で、もとは天台宗寺門派(三井寺)に属していました。中世以降、西国三十三所巡礼が庶民の間に広がったのに伴い第十番札所として定着し、今もなお巡礼姿の参拝客をよく見かけます。光仁天皇が毎夜金色の霊光が宮中に差し込むのに気づき、その源を探索させたところ、裏山である莵道山の岩淵から出現したとの伝説をもつ、金色の千手観世音菩薩を本尊に祀っています。
三室戸寺という地名に「室」という文字が使われていますが、あの御室と同じで、光仁天皇がこの地に離宮をかまえられた当初は「御室戸寺」でした。その後も花山天皇・白河天皇の離宮となり、「御」が「三」になって三室戸寺になったと伝わっています。
西国三十三所巡礼の霊場第十番札所であることから、花山天皇の西国巡礼創始からちょうど1000年にあたる昭和62年(1987)に枯山水、池泉、広庭からなる5000坪の大庭園「与楽園」を整備し、四季折々の花を植えました。春は2万株のツツジと1000株のシャクナゲ、夏は100種250鉢のハス、秋は紅葉と花の寺としても知られます。なかでも規模が大きく、有名なのが朱塗りの山門脇に広がるあじさい園です。(拝観料500円)50種1万株のアジサイが杉木立の中を埋め尽くす光景は壮観で、その美しさは関西ベスト3ともいわれています。(あとの二つは神戸市立森林植物園と奈良の矢田寺)
アジサイを縫うように遊歩道も整備され、西洋アジサイやガクアジサイ、柏葉アジサイ等とともに、幻のアジサイといわれるシチダンカも見ることもできます。アジサイが最盛期を迎える6月中旬の土・日曜日の夜間にはライトアップが行われていて、漆黒の庭園に色とりどりのアジサイが浮かびあがる姿は幻想的であり、ひときわ鮮やかに見えます。
“ハート形の青いアジサイが花を咲かせた”と関西のTV番組等で取り上げられていることもあり、記念撮影してフェイスブックに掲載する人も多く、人気が広がっています。ハート形が見られるようになったのはここ数年のことで、約1万株のうち、こんな形になるものは数少ないといい、理由は分かっていません。 詳しい場所は公開されていませんので、参拝客は四つ葉のクローバーを探すような宝探し気分も味わえます。
ハート形の青いアジサイを探しながら、30種のいろとりどりのアジサイが満開の小経を散策する。アジサイは先日来の雨でより色彩を放ち見頃でアジサイ庭園を右手に見ながら山門をくぐり、60段の石段を上った先の本堂へ。
境内には文化11年(1814)に再建された唐破風を付けた重層入母屋造りの重厚な本堂をはじめ、室町時代の建立で国の重要文化の十八神社本殿、東側には鐘楼と元禄17年(1704)建立の朱塗りの三重塔など歴史のある建造物も多く、大寺の雰囲気が漂います。本堂前の『蓮園』には、250鉢の色とりどりの蓮が咲き、まさしくその光景は極楽浄土のようです。 ハスは仏の教えとともに語られる花。花びらは迷いを、花托は悟りを表します。だから花托が現れて、花びらは一枚一枚散り始めるのだそうです。
松尾芭蕉が「山吹や宇治の焙炉のにほふ時」と詠み、西行は「暮れはつる 秋のかたみにしばし見ん 紅葉散らすな御室戸の山」と謳っているほどに花の寺なのです。現代でもJR東海「そうだ、京都、いこう」 で 「京都」「初夏」「花」で検索して、息子が教えてくれました。 春と夏の間に、いったい いくつ季節を隠しているんだ、この町は。(2006年 初夏) と言っています。
三室戸寺の本堂前に石で造られた大きな牛の像が狛犬のように鎮座している。大きく開いた口中には石の玉があり、これを撫でると勝運がつくといわれ、宝勝牛と名付けられています。
狛牛と対面して兎が安置されていて、狛犬ならぬ狛兎なのです。三室戸寺のある地域は、古来より、菟道(うじ)と称され、宇治の中心地でもありました。仁徳天皇の弟、菟道稚郎子は宇治天皇とも称され、一時皇位についた可能性もあるとのこと。この菟道稚郎子は応神天皇と宇治の豪族、和邇氏の娘との間に生まれた皇子で、宇治を本拠としていたので、こう呼称されていたのでしょう。菟道稚郎子が宇治に来た際、兎が道案内したとの伝承もあり、兎と縁があります。因みに、菟道稚郎子は日本書記に、菟道の山の上に葬られたとありますが、当山本堂の裏山の古墳が、稚郎子のものだといわれています。
また、当山所蔵の摩尼宝珠曼荼羅ないし文書に記されている生身不動明王は、月を人格化したものであり、足下に兎が表現されています。狛兎は、御影石製で、高さ150cm、幅90cmの巨大なものです。兎は、幅60cmの大きな玉を抱いてるのであるが、玉の中に卵型の石があり、それが立てば願いが通じると云われています。
本堂に参拝するには人の流れをよく見ると、狛牛・狛兎・本堂という順に並んでおり、おまけに本堂横にある鐘楼に鐘を撞く人の行列もあり、さすがに多くの人が参拝されています。
『宇治十帖』にちなみ、古来より「宇治十帖の古跡」が設けられ、『源氏物語』宇治十帖を偲びながら、ゆかりの地を巡るようになりました。『源氏物語』宇治十帖には、薫の君が仏道の師として帰依する「宇治山の阿闍梨」が登場しますが、これが三室戸寺の僧をモデルとして描いたという説もある三室戸寺の鐘楼脇には「浮舟古跡」と刻まれた古碑があり、これは二百五十年前の寛保年間「浮舟古跡社」を石碑に改めたもので、その折古跡社のご本尊「浮舟観音」は当山に移されました。宇治十帖のヒロイン・浮舟の念持仏として、今に伝えられています。ここには謡曲「浮舟」の話も残っています。
階段近くには宇賀神の像が本堂前に鎮座していた。三室戸寺の入口に架かる小さな橋を蛇体橋という。この橋名の由来は、昔のこと三室戸の観音さまを信仰している心のやさしい娘がある時、村人が蟹を殺そうとしているのに出くわし、「魚の干物をあげるから、逃がしてやっておくれ」と頼んで、蟹を助けてやった。さて、ある日のこと、その娘の父親が畑に行くと、蛇が蛙を飲み込もうとしていたので父親は、「蛙を放してやりなさい。放したら、わしの娘をやるから。」と、蛇に言ったところ蛇はすぐに蛙を放し、藪の中に消えていった。その夜、蛇はりりしい若者に姿を変え、父親のところへ「約束通り、娘をもらいにきたぞ。」とやってきたので父親はびっくり仰天し、「三日後に、来てくれ」と、言い逃れをして蛇を帰したとのこと。
三日後、娘は戸をしっかり閉めて部屋に閉じこもると、恐ろしくて気が遠くなりそうなのを必死でこらえながら、三室戸の観音さまを念じながら、一心に観音経を唱えたのである。外で娘を待っていた若者は、ついにしびれを切らし、蛇の姿にもどると、尾で戸を打ち破ったのであるが、「観音さま!」と娘が叫んだとたん、たくさんの蟹がこつぜんと現れ、はさみをふり立てて蛇に切りかかり、怒り狂う蛇を退治したのである。翌日、娘は三室戸寺へお礼参りに出かけたところ雨が本降りになっていて、娘が参道の橋を渡り、なにやら気配を感じて振りかえると、橋の上に蛇が横たわり、悲しげな目で娘をじっと見つめると橋の裏側にまわり、ふっと姿を消したそうである。 雨が降る日には蛇の影が現れることから、いつしか人々は、この橋を蛇体橋と呼ぶようになったそうである。
娘が蛇の供養のために奉納したと伝わる宇賀神の木像(非公開)がある。寺は気軽に触れてもらおうと、木像に似せた石像を新設し、蛇の尾には金運、翁のひげには健康長寿の御利益があるとされているらしい。
京阪三室戸駅の近くに「兎道稚郎子の墓」があるので立ち寄ることにした。莵道稚郎子は応神天皇と宇治木幡の豪族の娘、宮主宅媛との間に生まれ、幼い頃から学問に秀で、応神天皇に望まれ一度皇太子になったのですが、兄の仁徳天皇と皇位を譲り合って自ら命を絶った悲劇の皇子です。紫式部は、この皇子を源氏物語の八の宮のモデルにしたのではないかといわれています。
莵道稚郎子の墓の所在地はいろいろな説がありその場所が特定されなかったのだが、明治23年(1890年)当時の宮内省によって「浮舟の杜」とよばれていた場所が買い取られ、「莵道稚郎子の墓」(宇治墓)とされたらしい。 宮内庁は当時無理やり陵墓とか陵墓参考地とかを年代考証も考えず作ったので非常に怪しいお墓であるが、小鳥がさえずりバードウオッチングにはよさそうである。
宇治へは京阪電車「宇治・伏見1dayチケット」が指定エリア内なら乗り降り自由で便利です。京阪電車で宇治の一つ手前の三室戸寺で下車し、歩くこと15分程度で三室戸寺に到着します。また毎年10月下旬と11月上旬の土日祝には「源氏ろまん 宇治十帖スタンプラリー」が開催されています。スマホを使って宇治十帖の物語を偲ぶ古跡や世界遺産の宇治平等院、宇治上神社などを巡るイベントです。紫式部と源氏物語に想いをはせ、宇治の歴史と文化を歩いてみてください。