関東入府の徳川家康の命を受けた徳川四天王のひとり井伊直政が慶長3年(1598)に築城した高崎城。中山道や三国街道を抑える要衝であることから築かせたと考えられます。郭内だけでも5万坪を超える広大な城郭でしたが、現在は三の丸外囲の土居と堀、乾櫓、東門が残るだけとなり高崎城址公園として約4.9haが整備されています。公園内にはアントニン・レーモンド設計の群馬音楽センターやシティーギャラリー、高崎市役所等が立ち並び、昔と現代モダンが融合した高崎城址をぶらつきます。
まずは駅から中心市街地を走る「まちなかぐるりん」に乗って高崎城址公園へ。
もともとこの地には和田城と呼ばれる城がありましたが、豊臣秀吉の小田原征伐の際に前田利家・上杉景勝らの連合軍によって包囲され落城し廃城となっていました。小田原征伐後、関東に徳川家康が入部するとともに井伊直政は天正18年(1590)に12万石で上野国の箕輪城に配置されました。北関東から奥羽へとつながる東山道の要地、しかも中山道と三国街道の分岐点という交通の要衝だったからです。直政は武田、織田、北条と受け継がれてきた箕輪城を拠点として、それを近世城郭へと改修しました。
慶長2年(1597)家康の命により鳥川を西の濠として和田古城の城地を取り囲む形で本丸を中心に二の丸が囲み、更にその外周を三の丸が囲む輪郭式で高崎城を築き、坪数5万1613坪にも及ぶ広大な近世城郭としました。築城のあわせ城下町の整備も開始され箕輪城下から多くの寺院や町が移され、翌慶長3年(1598)箕輪城から築城中の高崎城に移りました。また城下町を囲む形で遺構と呼ばれる土塁と堀も築かれました。
井伊直政は2年後彦根に転封となり、その後高崎城主は城主が定まらず、諏訪、酒井、戸田、藤井松平と譜代大名が短い期間で交代したため築城工事は中断されていましたが、安藤重信が工事を再開し元禄5年(1692)に完成しました。高崎城は西に鳥川の深い淵と高い崖という天然の要害を背に前面に開けた広大な土地を活用して縄張りが行われ、本丸、二の丸、三の丸を土居と堀で囲んだ輪郭梯郭複合式の平城です。
その後城主は安藤氏のあと、長沢松平、大河内松平、間部、ふたたび長沢松平とめまぐるしく入れ替わりましたが、五代将軍綱吉のころに再度、大河内松平氏が入封すると、明治2年(1869)の版籍奉還まで10代、約150年間にわたって城主となりました。
明治時代に入ると高崎城は明治6年(1873)の「廃城令」で、陸軍省の管轄になり城内は第十五連隊の兵営として殆どの施設は取り壊されてしまいました。しかしながら三の丸の土居と堀は、ほぼ昔のままの姿で残っています。
本丸の土居の上には天守に相当する御三階櫓と乾(北西)、艮(北東)、巽(南東)、坤(南西)の4基の二層の隅櫓がありました。現存するのは乾櫓のみで、2階建て入母屋造りです。明治初期に払い下げられ、農家の納屋として使われるなどされていましたが、昭和51年(1976)に現在の場所に移築、復元されました。
かつて城内には本丸門など16の門があり、通用門として使われていた東門だけが、農家に払い下げられていたのを昭和55年(1980)に乾櫓の隣に移築復元されて保存されています。
本丸を囲むように、西の丸、梅の木郭、榎郭、西曲輪、瓦小屋があり、二の丸、三の丸が梯郭式で構えられていました。城の周り土塁で囲まれ、石塁はほとんど造られませんでした。地面が関東ローム層に覆われ、石材が豊富ではない関東の城郭の例にもれず、石垣は要所にわずかに積まれただけの土の城でした。城内の3分の2を三の丸が占めていること、一番外側の三の丸堀と土居が矩形で直線的であること、その堀と土居に凸型の防衛施設である出桝が設けられていることなどがこの城の特徴です。土で広大な三の丸を直線的に囲んだスケールは、おまも確認することができます。かつての面影を残す三の丸堀は城址の東側、枡形の南あたりで、三の丸の土塁と水堀は現在の町並みにも生きています。
三の丸と堀を隔てたところに高崎公園は明治9年(1876)に高崎城南西の頼政神社の別当寺「大染寺」(明治7年(1874)廃寺)の跡地に造られた公園です。元和5年(1619)10月安藤重信が、下総国小見川からの国替えで高崎城主となり、以来重信、重長、重博の三代の77年間にわたり安藤氏が高崎城主となり、井伊・酒井両氏の後を受けて、城下町の整備を行い、高崎藩発展の基礎を築きました。安藤重信が高崎城主となり、堀を隔てた南側に菩提寺の川島山良善寺(大染寺)を建立した元和5年(1619)に、境内に植えられたと伝えられてるのがこのハクモクレンです。樹高14m、根本周囲は4m、枝張りは東西13m、南北14mに及び樹齢は400年と推定されています。
ここは景勝の地であったことから文人が集まり「高崎八景」を詠んでいます。鳥川の眺めも良く、遠くに高崎市のシンボル的存在として親しまれる昭和11年(1936)建立の白衣大観音を望むことができます。高さは42m、井上房一郎氏の井上工業が施工しました。
元禄8年(1695)高崎城主に封ぜられた松平(大河内)右京大夫輝貞公が元禄11年(1968)大河内家の祖先源三位頼政を祀る頼政神社を建て、良善寺を私的祈願寺として大染寺と改め、別当寺としました。当社の祭礼は、例年頼政公自刃の日、5月26日に行われ旧藩時代は上野随一の祭であったと伝えられます。今も例年9月の第一土・日に高崎市の中心街で行われる「高崎まつり」として引き継がれています。
境内には高崎市出身のキリスト教思想家で文学者でもある内村鑑三の「上州人 上州無智亦無才 剛毅朴訥易被欺 唯以正直接萬人 至誠依神期勝利」と自らのことを詠んだ漢詩が刻まれた石碑が建てられています。
現在城跡は市街化が進み、超高層21階の市役所や高崎総合医療センター、シティギャラリーなど公共施設が多く並んでいます。中でも群馬交響楽団の拠点のために、高崎市民の熱望によって建てられた音楽ホール・群馬音楽センターは、建設費の総額の半分近い1億円が市民の醵金によって集められたといいます。群馬交響楽団は高崎の実業家井上工業社長・井上房一郎氏によって作られましたが、この音楽堂の設計をアントニン・レーモンドに依頼したのも井上房一郎氏でした。少林山達磨寺の洗心亭をブルーノ・ダウトに紹介したことでも有名です。昭和36年(1961)7月完成の音楽ホールは、帝国ホテルの設計で有名なフランク・ロイド・ライトに師事したチェコの世界的建築家アントニン・レイモンドが設計しました。正面の大きなガラス面が目を引きますが、特徴は側面から屋根を覆う鉄筋コンクリート折板構造という独特の建築工法で作られ、1999年にはDOCOMOMOが選定する「日本の近代建築20選」に選ばれた日本を代表する近代建築物です。
この建築は最大スパン60mの折板構造という折り紙のようにコンクリートの板を折り曲げたような、柱や梁ではなく、屏風のような構造を特色としていいて、全体を五角形で包み込む極めて意欲的な造形です。
公園のような広い敷地に、何の囲いもなく、誰でも近づくことができ、開放的に置かれているので親しみやすい。スッキリとした出入口はスチールサッシのため、一段と透明感があり、開放的です。庇のコンクリートとスチールサッシの取り合いが興味深く、スチールサッシの強度を増すための工夫もうかがえます。
側面は折板構造が良く分かり、空中に梁が串刺しになっているのも興味深く、鉄筋コンクリートの打ち放しの表面がきれいに維持されています。工事は井上が社長を務める井上工業が請け負いましたが、レーモンドは、難しい工事なので地方の建設会社では無理だと心配しましたが、井上の熱意に押されしぶしぶ合意。しかし社員が高崎市民で誇りをもって熱心に取り組み東京の建設会社よりはるかに良い仕事ができたと感心したといいます。
井上房一郎氏が東京にあった建築家アントニン・レーモンドの自邸“笄町の家”を本人許可の下、実測・図面も提供された上で模して建てた旧井上房一郎宅が高崎美術館内に建っています。戦後焼失してしまった井上の自邸を昭和27年(1952)に再建するにあたって実現したものでレーモンド没後にオチジナルの“笄町の家”は焼失しており、この井上邸はその面影を体感できる貴重な建築物です。木造平屋建てで東西に細長く、やや東寄りにパティオ(中庭)が設けられたコの字型の建物で、レーモンド邸とは東西が反転しているとのこと。勾配の緩やかな切妻屋根が緑に調和し、優雅な雰囲気を生み出している。
パティオの東側にある24帖の居間は、日本の茅葺き農家の梁のように見せる鋏状トラス(柱や登り梁を二つに割り丸太で挟み込む構造)によって生み出された大空間。天井板を用いずに屋根裏を見せた天井には施工前に磨き上げられた構造体が美しく輝いています。また居間北面の高い位置の取り付けられた明かり障子もレーモンド建築の特徴の一つで北側の柔らかい光が入り、室内を自然な明るさで照らしています。鋼板製のストーブや、レーモンドの妻ノエミがデザインした置き家具、造作家具などとともに、レーモンドの追求したモダニズムを表現する空間になっています。
庭に面した掃き出しのガラス窓を開け放つと、よく手入れされた庭園を眺めることができます。ここには柱と敷居をずらすことでサッシ中央の桟をなくしたレーモンドが好んだ「芯はずし」の手法が用いられていて、屋内外の一体感がより高まります。居間に障子という日本建築の要素も取り入れられています。
東側のパブリックスペースに対して、パティオの西側には家族が使うプライベートスペースが集められています。パブリックとプライベートを分ける役目のパテイオは半戸外の心地よい空間です。石畳のパテイオに透明んさ屋根材を介して自然の光が降り注いでいます。
1669㎡の広大な敷地には、高崎の自然の風景を写した庭園が設けられています。白い砂利道は烏川。楠をはじめ、こんもりと植え込まれた中高木や竹林は、観音山。生い茂る庭木の奥には茶室が設けられています。また「文永」(鎌倉時代)と記された灯籠や軒下で雨水を受ける風流ま那智黒石など、本物の素材に井上氏のこだわりが感じられます。
正面玄関は、これまでに二人の総理大臣、一人は地元の福田赳夫と元井上工業社員だった田中角栄など数少ない要人しか通ったことのないオフィシャルな玄関であったといい、その正面玄関には生前の井上氏の胸像が据えられ、自邸を温かく見守っているようです。