佐野厄除け大師と三英傑も欲した天明鋳物を佐野の城下で探す

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古くは『万葉集』の東歌にも詠まれている詩情あふれる三毳山(みかもやま)、奈良の都からの旧東山道沿いの町として、また藤原秀郷公ゆかりの唐沢山と豊かな自然に恵まれ、厄除け大師で賑わいを見せる歴史と文化の香りの高い栃木県・佐野。かつて戦国時代には唐沢山城が、江戸時代には日光例幣使街道の宿場町として栄えてきた面影が今でも見られます。平成5年(1993)、全国京都会議を機に三毳山にて大文字焼きも行われる佐野にブラタモリで“ほしいモノ”にあふれているというその魅力を探しに出かけます。

唐沢山城の次に三英傑(信長・秀吉・家康)も欲しかった茶の湯釜(天明釜)の天明鋳物を探しにいきます。鉄、銅、銀などの金属を溶かして型に流し込み、固めて作る物を「鋳物」といいます。佐野市には、千年以上前から鋳物づくりが受け継がれていて、日本で一番古い鋳物の産地です。当時佐野は「天明」という地名で呼ばれ、佐野(天明)で作られたもの、佐野(天明)の職人が作ったものを「天明鋳物」と呼び、佐野市を代表する伝統工芸です。JR佐野駅南口広場に設置された身長65cmの「さのまる」像は天明鋳物で作られました。駅の利用者をお出迎えしてくれています。

天明鋳物の起源は平安時代、天慶2年(939)平将門の乱のため、唐澤山神社御祭神・藤原秀郷公が武具製作者として河内国から5人の鋳物師を佐野に移り住ませたことに始まります。古くは「天命」と表記され、「天冥」「天猫」などの記述もあります。時代は下がって室町時代、茶の湯の流行と相まって天明の茶釜は、九州の芦屋釜とともに「西の芦屋、東の天明」として天下に名を知られました。質素を好んだ千利休は佐野の天明釜を好み、三英傑にも愛用されました。織田信長は「天猫 姥口釜」を所持し、対立した松永弾正久秀との逸話「古天明 平蜘蛛釜」や豊臣秀吉が気に入った「責紐釜」、徳川家康は古天明釜に「梶」という名前を付けて愛用しました。以前は大名茶人である古田織部が所持していたものです。江戸時代には京都の公家である真継家の配下の御用鋳物師として領主から保護も受けて、鍋や釜も製造されるようになりますが、現在では花瓶、茶器など高級な美術工芸品にその優れた技術が受け継がれ、高い評価を得ています。

現在の町並みは佐野元信が、江戸時代初期に居城を唐沢山城から城山公園のある春日岡山に移した頃に形成されたのが始まりです。その後、京都の朝廷から日光の東照宮に幣帛を奉納する勅使が通行する例幣使街道の宿場町として発展していきました。まずはJR佐野駅北口に直結している城山公園(佐野城跡)に向かいます。

唐沢山城は平和な時代になると、城攻めに備える機能が充実した山城も、地域を統治するには不便だったのか徳川幕府が開かれた前後に廃城となります。慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後所領を安堵され唐沢山城主となった佐野信吉でしたが、江戸の大火を見て「いざ鎌倉」と忠誠心を発揮し、早馬を飛ばして江戸に駆け付けましたが徳川家康は、江戸が丸見えなのかと不気味に感じ、「山城を降りろ」と命じたとの逸話も残ります。

徳川幕府の命により唐沢山城を廃城にした佐野信吉は慶長7年(1602)から標高56m、比高20mの春日岡山に佐野城の築城を開始します。春日岡城・春日城・姥城とも呼ばれる近世城郭で、春日岡の地名は延暦元年(782)藤原藤成がこの丘に春日明神を祀ったことに由来します。春日岡山には惣宗寺がありましたが築城するにあたり寺を移転させています。その惣宗寺こそ現在の「佐野厄除け大師」です。佐野信吉は築城途中の慶長12年(1607)に佐野城に入りましたが慶長19年(1614)に兄の伊予宇和島藩主富田信高の改易に連座する形で改易されてしまいます。

城は独立丘陵を利用した全体で110m・南北390mの規模を有し、連郭式の平山城で南から三の丸・二の丸・本丸・北出丸と直線的に築かれています。それぞれの間は空堀で区切られ内堀へと続いていました。今も堀切があるのが確認できます。

特に北出丸は「鐘の丸」といわれ、本丸の北側を守る場所です。江戸時代の記録には、東西約36m、南北約54m、本丸との間の堀幅約14mと記され、「隅櫓(見張台)」があったと考えられ、また西側の階段周辺には、「搦手」があり防御の点からも複雑な地形を構成していて重要な場所であったことが確認されています。

JR佐野駅南口に向かいます。駅前広場の中央に設置されている佐野駅前噴水広場「オシドリの像」は平成元年の「ふるさと創生事業」により全市町村に一律1億円の交付金が配布されたときに、これを活用して制作された天明鋳物の像です。佐野に伝わる絆が強いオシドリのつがいの「オシドリ塚」の故事による佐野市にゆかりの深い鳥となっています。佐野の町ブラの出発です。

佐野駅の南側を走る県道67号線界隈には、今も古くからの建物が点在しているほか、伝統工芸の天明鋳物の系譜を伝える造形物が寺社に残っています。町中に点在する鋳造物を見て歩きます。

JR両毛線に沿って西へ徒歩7分、大蔵町にある「星宮神社」は久安年中(1145~1150)の創建され天孫星宮慈照大明神と称しました。境内にある鳥居は「明神鳥居」と呼ばれ、享保20年(1725)金屋町総鋳物師棟梁大工職という刻名があります。天明鋳物師の名匠たちが協力し、天明宿の総氏子によって奉納されました。高さ4.24m、周囲1.0605mの銅製鳥居です。

旧社地は七ッ塚と呼ばれ、北斗七星に塚を配置、星宮妙見大菩薩を祀る地とされます。社殿は古墳とされる高台上にあり、慶長年間の佐野城築城に際しての堀を掘削した残土で盛土をしています。石段の両脇にある手摺には現代の天明鋳物師の一人である「栗崎鋳工所」によって作られた十二支が描かれています。※唐澤山神社の風鈴を制作

天明宿の鎮守で社殿は天和3年(1683)に改築されていて彩色彫刻が嵌めこまれています。明治維新の神仏分離までは虚空蔵菩薩も合祀されていましたが、これは維新で惣宗寺に遷されています。

旧日光例幣使街道(県道67号)から南に下った通り一帯には鋳物メーカーが集まっていました。ブラタモリでも紹介された鋳物職人さんも信仰する金山神社もあります。天明鋳物の最も栄えた江戸時代中期の寛保2年(1742)の再建され、「かねがみさま」と呼ばれて、鋳物師や住民の厚い信仰を集めていました。ご祭神は金山彦命、金山姫命の二柱で、総称して金山大明神といい、治安2年(1022)に「正一位金山大明神」として創建された当時の社殿は天明鋳物繁栄を象徴する荘厳華麗なものだったといいます。また日光輪王寺梵鐘の木型が拝殿額として奉納されていました。(佐野市郷土博物館に展示)

現在では栗林鋳造所や若林鋳造所、佐野鋳造所等数件の業者が残るのみとなりました。写真は佐野鋳造所跡(鐵館)で、明治時代に建てられたレンガ造りの鋳物工場の溶解炉(キューポラ)です。佐野で唯一の工場跡で在りし日の栄華が目に浮かぶノスタリチックな建物です。おもわず「キューポラのある街」を思い出してしまいます。

若林鋳造所近くの一渓山宝龍寺には元禄7年(1694)天明鋳物師・丸山孫衛門尉藤原信次の作である銅造阿弥陀如来座像が鎮座しています。蓮華の受花に広瀬家累代十九霊位の法名と建立のいわれが249文字で刻まれています。残念ながら関東大震災の影響で、御首の三道の最下部が破損し傾いてしまっている。柔和な童顔をたたえた本像は、像高4.09m、江戸中期の天明仏師による代表的な作品です。

惣宗寺に隣接する観音寺には寛文9年(1669)斎藤伝七郎久重、太田小左衛門尉藤原秀次、大川久兵衛藤原信正等三人の天明鋳物師たちの合作鋳工の銅造阿弥陀如来座像(佐野大仏)が鎮座します。近在10里四方の信徒たち(佐野氏旧臣の子孫)の発願により建立されたもので、像高3.13m露座の大仏として高く評価されています。観音寺は室町後期大永3年(1523)藤原秀綱により建立、自貞法印開祖。慶長7年(1602)唐沢山城の移城に伴い現在地に移っています。

最後は佐野でもっとも有名な「佐野厄除け大師(春日岡山転法輪院惣宗官寺)」を訪れます。天慶7年(944)藤原秀郷の開基で奈良の僧・宥尊上人の開山と伝わります。その後佐野氏の庇護を受け再興、江戸時代初期慶長7年(1602)佐野城築城の際、現在地に移転しています。元和3年(1617)3月・徳川家康公の遺骨を静岡県の久能山から日光東照宮への遷葬の際には、宿所とされるなど徳川幕府とに縁も深く、陽明門や境内のあちこちに徳川の家紋である三つ葉葵が掲げられています。写真の惣門は佐野城の三の丸表門を移築したものです。

天台宗の名僧、慈恵大師(元三大師)を祀り関東三大師(青柳大師・川越大師)のひとつに数えられています。

境内の銅鐘は、明暦4年(1658)天明鋳物師105人が合作して寄進した大鐘で、口径89.99cm、総高146.04cm、重量約1125kgあります。この竜頭は蒲牢(想像上の動物)の首を現わしています。慶長以前にはこの種が多く、その後は竜首に変化したとのこと。天明鋳物の中でも代表的作品であり、銘文に「蒲牢」「洪鐘」等の異烙がある。

惣宗寺(佐野厄除け大師)は、徳川家康公の遺骨を静岡県の久能山から日光東照宮への遷葬の際に、当時の住職である13世三海が家康の側近、天海の高弟であったこと、佐野氏が改易となり佐野領は元和2年(1616)、家康の懐刀、小山藩の藩主本多正純に加増されていたことから宿所とされました。正純が境内に霊柩の為の御殿を造営した故事から境内の乾(北西)の地に文政11年(1828)佐野東照宮が建立されました。

公道沿いに唐門があり、拝殿、本殿と並び、本殿の周りには透塀があります。朱塗りの柱や梁等に龍や獅子などの江戸後期の精緻な技巧を駆使した彫刻装飾が極彩色で施され、徳川家の家紋「三つ葉葵」の飾り金具が金色に輝き、日光東照宮に劣らない華麗なものとなっています。

ここにも藤原秀郷を祖にもつ佐野家が衰え、徳川家が栄え、城下町から宿場町に姿を変えていったことが伺えます。見どころをめぐりながら名物の佐野ラーメンを食べ、小腹が減ったらいもフライ。かけるソースもいろいろです。そして忘れてはならない手作りの皮にたっぷりの野菜が特徴の佐野餃子はラーメンに勝るとも劣らない逸品です。食に歴史に魅力満載の佐野を歩いてみてください。

“ほしいモノ”にあふれる佐野で唐沢山城跡と藤原秀郷を偲ぶ」はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/12434

 

 

 

 

 

 

 

 

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