房総半島の南東にある千葉県大多喜は佐倉や関宿」、久留里や佐貫と並ぶ城下町と知られます。房総の小江戸とも言われ、すでに16世紀には在城とも伝えられ、天正10年(1590)徳川四天王の一人本多忠勝が10万石で大多喜城に入城し、それ以後、現在の城下町は形成され宿場町としてもにぎわいました。また渓谷の町として大多喜町には紅葉で有名な養老渓谷やさらに奥地にはいったところにはちば眺望100景にも選ばれている麻綿原高原があり、この時期アジサイの群落を見ることができます。梅雨の晴れ間に城下と渓谷、本多忠勝にあやかって必勝のまち“大多喜”を訪れます。
いすみ鉄道大多喜駅近くの線路脇に立つ大多喜城大手門(昭和57年建設)をくぐれば町の中心、大多喜駅はすぐそこです。本来の大手門は大多喜駅の裏側にありました。写真では見づらいのですが『房総の小江戸』の扁額が掲げられています。
小さな時計台が屋根に乗せられた可愛らしい駅舎、関東の駅百選認定の「大多喜駅」は、昭和5年(1930)4月1日大原~大多喜間の15.9kmが開通した国鉄木原線の開業にあわせて造られました。現在はいすみ鉄道のデンタルサポート大多喜駅となっています。吉永小百合主演のモントリオール世界映画祭審査員特別賞グランプリとエキュメニカル審査員賞の受賞作「ふしぎな岬の物語」で、都会の生活から逃げるように帰郷したみどり(竹内結子)が初登場するのがこの駅です。
大多喜駅ははいすみ鉄道本社を有する有人駅であり、駅構内東側にはいすみ鉄道の車庫もあり、一般道沿いから間近でいすみ鉄道の車両を見ることができます。写真の黄色い車両がいすみ300形で、平成24年(2012)に導入された新型車両です。隣の国鉄一般色の車両は昭和40年(1965)に製造されたキハ52形125号車で、もともとはJR西日本の大糸線で活躍していましたが平成23年(2011)に引退、同年4月より観光急行列車として営業を開始した車両です。
駅構内には忍者を従えた発泡スチロール製本多忠勝の武者人形が飾られています。でTVチャンピオン発泡スチロール王が制作したものです。「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」。元亀3年(1572)の三方ヶ原の戦いで武田信玄に敗退した徳川家康軍の殿を務めた本多(平八郎)忠勝の武功を称えた落首です。、徳川四天王の一人である忠勝は57度の合戦に参加したが、一度もかすり傷一つ負わなかったと伝わる猛将で、豊臣秀吉から「東国一の勇士」とも賞賛されました。ちなみに落首にある「唐の頭」とは、中国(唐)から伝わったヤクの毛で作られた兜のことです。
旅の始まりは駅向かいにある越屋根の観光本陣で地図を手に入れ、まずは大多喜城へ。御城印はこちらで販売されています。
天正18年(1590)に、家康が関東に移封された際、安房の里見氏に備えるため、本多忠勝は大多喜藩10万石を与えられ初代藩主となり、天正19年に、現在の大多喜城に移ったといわれます。大多喜城は、御禁止川(夷隅川)の蛇行による曲流に囲まれた半島状の標高73mの台地の西北に位置し、川を天然の堀として建てられた平山城で、忠勝が近世城郭へと大改築を行いました。
城内は本丸、二の丸、三の丸に分れ、本丸の天守は天保14年(1843)7月3日焼失し、現在の大多喜城は昭和50年(1975)愛媛県の宇和島城や10万石級の城を参考に天守閣造りの博物館が建てられました。本丸跡6420㎡は急斜面に囲まれ、周囲には土塁が残っていますが、当時の石垣や建物はありません。続日本100名城に選定されています。
博物館の屋根の瓦には二つの家紋が使われています。最初の城主となった本多家の紋「丸に立葵」と最後の城主の大河内松平家の紋「三つ扇」です。武家の家紋は、権力の象徴であるとともに合戦の際に敵味方の識別をしやすくするために作られたものです。
忠勝は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでの功績により、伊勢桑名藩10万石に移されたため、ゆかりの史跡はあまり多くないものの、本多家2代の菩提寺・良玄寺や、二の丸跡にある大多喜高校敷地内には、大多喜城内にあった三十数個の井戸の一つで、天正18年(1590)忠勝によって掘られた周囲17m、深さ20mの「底知らずの井戸」ともいわれる大井戸が残っていて夏でも水を湛えました。当時は八個の滑車と16個のつるべ桶で汲み上げられたという日本一の大井戸でした。
大多喜城を見上げる大多喜高校敷地脇には、大多喜城の建造物で唯一残る医薬門が移築されています。本柱が中心より前方にあり、控柱を付けた薬医門形で、天保13年の火災後に建築された二の丸御殿の門です。
また御禁止川(夷隅川)に架かる三口橋から赤い鉄橋越に見る大多喜城は撮影スポットです。
また大多喜の城下町の町割りは忠勝によって行われました。江戸時代の雰囲気を残すのは大多喜城とは線路を挟んで反対側。外房の勝浦と県央の名柄町を結ぶ旧大多喜街道(現在の城下町通り)がメインストリート。鍵の手に曲がる道筋は城の防御を優先した江戸時代の名残です。通り沿いに北から紺屋、田丁、猿稲、久保、桜台、新丁、柳原と続く七つの町があったことから「根小屋七町」と呼ばれ、紺屋は染物屋、商家の多い久保などと、職域によって住み分けられて城下町が形成されていいた経緯があり、現在も江戸時代から明治時代に建てられた国の文化財級の建物が残り、縦格子が見事な江戸時代の町家や土蔵造りの商家、造り酒屋、旅館などが点在します。車で走るには厄介ですが、通りを歩くなら城下町を実感することができます。まずは大多喜町役場近くの権現坂通りから風情ある石畳の酒蔵小路を歩きます。
城下町通りとの交差点にあるのが大正8年(1919)創業の老舗和菓子店「御菓子司 津知家」です。昭和50年の大多喜城の開館に合わせて作られた「上総大多喜城最中十万石」が名物で、国産餅米から作った皮は二種類あり、本多家の立ち葵と最後の藩主・大河内松平家の三つ扇の家紋が描かれています(大多喜城の屋根瓦と同様)。厚さ3・5cm、北海道産の最高級小豆を使用したつぶ餡が皮からはみ出すほどたっぷり入った十万石にふさわしい最高級最中です。
石畳を挟んだ向かいには天明年間(1781~1789)創業の酒蔵「豊乃鶴酒造」があります。明治時代に現在地に移り、国道沿いの母屋や赤煉瓦の煙突、酒蔵などが国の登録有形文化財です。代表銘柄の「大多喜城」」は、すっきりとした辛口タイプでおみやげに人気。
さらに城下町通りを直進すると5と10のつく日に開催される朝市、六斎市が開かれる「夷隅神社」とその参道入口に立つ江戸時代後期から旅籠として創業している「大黒旅館」が現れます。明治時代には学生だった正岡子規が宿泊したという説もあり、明治や大正時代などを舞台にしたドラマや映画の撮影にも時折使用されています。通称牛頭天王宮と呼ばれる夷隅神社は歴代大多喜城主の崇敬社のひとつで、創建は不詳ながら再建は1041年の平安時代、本多忠勝が城下町の整備に合わせてこの地に移したと伝わります。現在の建物は江戸時代末期のものと思われ、拝殿の外観は軒下を朱塗りとし、向拝に華やかな装飾が見られます。本殿内は簡素な造りで、中央奥にご神体が記された御鏡を祀る。
城下町通りを戻り、酒蔵小路に入らず右折し、すぐに城下町通りが左折になるのは、敵が攻めにくい直角に曲がる鈎型の道になっているためです。
土蔵造りの商家を活用した商い資料館は、町並みの中心にあり、江戸~明治の資料が展示されています。1階は昔の商家を再現していて帳場には長火鉢、階段箪笥、算盤、大福帳などの品々が並ぶ。2階では懐かしい生活道具や遊び道具も見られます。大多喜を訪れた小林一茶や正岡子規に関する展示もあり、江戸時代の俳人・小林一茶は、南房総総巡歴のさい「山中に楽しく暮らす武の下」という句の短冊を残しています。裏には陣座公園という日本庭園があり、町歩きの休憩スポットになっています。
並びには明治9年(1876)建築の土蔵造りの商家で質屋・金物屋を営業していた釜屋(旧江澤邸)資料館があります。屋根瓦にどっしりとした構えの町屋で二階には重厚な観音開きの扉があります。
通りを進むと国指定の重要文化財で藩の御用金御用達商人を務めた渡辺家住宅があります。屋号は穀屋といい、嘉永2年(1849)地元の棟梁・佐治兵衛によって建造された江戸時代末期の代表的な商家造りで、寄棟棧瓦葺、二階建て、正面入り口は縦格子戸を、表板戸には上下戸をつけてあります。また小林一茶の句「松かぜに 寝て食う 六十四州かな」の短冊があります。テレビ東京「開運!なんでも鑑定団」の鑑定士、渡辺包夫氏の生家でもあります。
大多喜城から数えて4番目の門であることから名付けられ、忠勝の築城と城下町の都市計画の時に建てられたと伝わる冠木門があた四ツ門公園を曲がれば大多喜駅に戻ります。
大多喜町は城と渓谷の町。6月のアジサイ咲く麻綿原高原「千葉県大多喜町の山奥、妙法生寺天拝園は天空のアジサイ園」はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/12263
そして紅葉の時期は養老渓谷を歩きます。