忍者の里と呼ばれる伊賀国は、三重県内陸部の山に囲まれた9里四方の小さな盆地。平成16年に「伊賀市」として市町村合併するまでは、上野市を囲むように伊賀市、島ヶ原村、阿山町、大山田村、青山町がありました。戦国時代、この地は日本の東西を分断する境界と位置づけられ、交通の要衡でもありました。豊臣家と徳川家の攻防の渦中で重要視されたのが、盆地の中央部の丘に建つ戦国の世に築城と都市計画の名手であった藤堂高虎が築いた伊賀上野城とその城下町です。町の北側の丘には国の史跡に指定される白亜三層の伊賀上野城が、静かな雰囲気を醸しながら端麗な姿を見せ、城を中心に城下には武家屋敷や古い町並みが今も残り、「伊賀の小京都」とも呼ばれます。伊賀忍者の故郷、俳聖松尾芭蕉の生誕地としても知られ、城の見学と並びノスタルジック風情の町歩きで歴史に思いを馳せる旅なら伊賀上野で決まりです。
伊賀鉄道・上野市駅から北へ歩くこと5分、小高い丘に整備された上野公園内に伊賀上野城跡はあります。正面左に行くと上野城本丸に行けますが、右手から筒井氏時代の旧本丸、城代屋敷跡を見てから天守へ向かうことをおすすめします。
伊賀上野城はもとは徳川への備えの城で城の東側の丘陵に堀切「蛇谷堀」を設け防備を固めていました。現在の県道56号線がその跡で蛇谷堀が一部残っています。伊賀市上野丸之内に薬師の方生池と呼ぶ大きな沼があり、高虎が城郭普請をするとき、この沼を利用して東の内堀をつくることになり、工事にとりかかたところ、眼はほおずきの如く赤く輝き、長さ二丈におよぶ大蛇があらわれました。里人たちの間で「山酸醤」とよばれ、この蛇を見た者は魅入られて生命を失うと言われていたので、夫役達は集まって殺してしまいました。それよりこの沼を蛇谷と呼ばれました。
高石垣で有名な伊賀上野城は、“築城の名手”藤堂高虎が手掛けた名城のひとつです。現在の城の原型ができたのは、天正13年(1585)で、大阪城から木津川経由で約一日の距離にある防衛拠点として、伊賀国を領した豊臣秀吉の家臣・筒井定次が平清盛の発願によって建立された平楽寺・薬師寺のあった標高184mほどの台地に城を東に向かって構え北に表門を構えました。当時は、長さ12間、幅7間の天守台の上に三層の天守が置かれていたといいます。藤堂高虎によって筒井定次時代の本丸は西へ拡張されたことから、旧本丸は城代屋敷となりました。写真は筒井古城の石垣と本丸(城代屋敷跡)に続く石段です。
豊臣秀吉の没後、徳川家康が関ヶ原の戦いに勝ち、豊臣政権の継承者としての地位を確立するに及んで、徳川家康は豊臣秀頼の大阪城へ圧力をかけ始めます。慶長13年(1608)に定次を失政を理由に改易すると、外様ながら家康の信頼厚かった藤堂高虎が伊賀・伊勢の城主として伊予今治城から入封。大阪城包囲網の一角として、慶長16年(1611)から自ら縄張りを指図、大規模な改修が始まりました。遠く大阪城の押さえとなるべく、西を向いて直線的にそそり立つ本丸高石垣です。この石垣は黒沢明監督の映画『影武者』のロケ地としても使われました。
大阪方に対抗するために特に西方面の防御に注ぐため、本丸を西に拡張し、30mの高石垣で囲み、筒井古城を大改修しました。現在も残る高石垣は、高虎が縄張りした大阪城が1位(約32m)、伊賀上野城が2位(約30m)となっていて、この二つの石垣は互いに向き合っています。写真は城の西側の道からで、内堀越しにその姿がよく見えます。
内堀から急勾配で真っすぐに切り立ち、三方を囲う高石垣のは長さ368mにも及びます。上から堀を覗くとほぼ垂直に見えるほどの急角度で、思わず足がすくみます。
竣工直前の五層の大天守は、慶長17年(1612)9月2日の暴風雨で倒壊してしまいます。ほどなく大阪夏の陣で豊臣方が滅亡したことで城普請は中止され、天守は再建されませんでした。高虎は大阪の陣が終わった後、交通の便利がいい津城を本城とし、上野城を支城として城代家老が執政することとなり幕末まで続きました。
明治になると多くの建物が解体されたが、伊賀上野城跡が公園として整備されぬ中、現在の天守は、昭和10年(1935)、地元の名士川崎克氏が私財を投じて純木造の復興天守が再建されました。見上げると石垣の上に朝日を受けてまばゆいばかりに輝く天守閣がそびえ立っています。端麗な姿から「白鳳城」の雅名があります。完成から約90年、伊賀上野のランドマークとして市民に親しまれています。
上野公園内にある俳聖殿や伊賀流忍者博物館を見た後は、敷地外、城下にある「旧崇廣堂」へ。旧大和街道(国道25号)沿い西へ向かう途中には、復元された白鳳門があり、白鳳の様はこの門と天守閣で表現されています。
隣には上野高校明治校舎(旧三重県第三尋常中学校校舎)があります。明治33年(1900)に建設された美しい白亜の校舎で、明治期の旧制中学校建築として現存する数少ない建物もひとつです。東西68mに及ぶ長さで、中央の玄関ポーチと左右両端の和風入母屋屋根が印象的な校舎です。正面ポーチの円柱はわずかな膨らみをもつエンタシスで、瓔珞飾りのあるアーチと菱格子の天井が特徴です。青少年期を伊賀で過ごした作家・横光利一がこの校舎で学んでいます。
後に小学校や図書館として使われた旧崇廣堂は、文政4年(1821)伊勢津10代藩主の藤堂高兌が、伊賀、大和、山城に住む子弟を教育するために建てた津の藩校・有造館の支校です。嘉永7年(1854)に発生した安政に伊賀上野大地震で、講堂を除く建物の大半が倒壊しましたが、その後復興されました。現存する絵図によると東に文教場、西に武道場があり、間は溝で仕切られていました。
現在は文教部門が残り、、弁柄塗の赤門と呼ばれる表門、藩主が出入りする御成門、玄関、講堂などが現存していて、創建の姿のままの講堂正面には米沢藩主上杉鷹山筆の扁額が掲げられています。
上野公園北西の高台に、西側に正面を向けて建つ洋風建造物が「旧小田小学校本館」です。明治14年(1881)に「小田学校」が「啓迪学校」と改称された際に建てらました。木造洋風二階建てで、屋根は寄棟造、桟瓦葺になっていて、敷地面積は274㎡あります。中央部にふくらみをもたせたエンタシス風の円柱や切妻造の正面ポーチは最も趣向を凝らした部分となっていて、2階正面のバルコニーが珍しく目を引きます。
太鼓楼は復元されたものです。
大和街道(奈良街道)をさらに西へ、城下町の西のはずれ、奈良街道と伊勢街道の交差する辻を鍵屋辻と呼んでいます。ここは寛永11年(1634)、渡辺数馬が義兄荒木又右衛門の助太刀を得て、弟源太夫を殺した河合又五郎に仇討ちを成し遂げたところで、日本三大仇討ちの一つ『伊賀越仇討』の舞台となった場所です。「一に富士(曽我兄弟の仇討ち)二に鷹の羽のぶっ違い(忠臣蔵)、三に名を成す伊賀の仇討」というフレーズがあります。現在も「みぎいせみち ひだりならみち」と刻まれた文政11年(1828)の道標が立ち歴史のドラマを語っています。
周辺は公園として整備され「伊賀越資料館」※休館中も併設されています。また渡辺数馬、荒木又右衛門一行が仇討ちの前に立ち寄り、仇を待ち伏せていたとされる萬屋を再現した茶屋「数馬茶屋」も佇んでいます。
江戸時代初期に整備された城下町は、高虎が原型を作ったとされ、まだ泰平とはいえない政情のなかで行われた町割りにもかかわらず、市街地の主要道路は幅広くまっすぐな碁盤の目状です。しかしながら周囲には寺町などを置き、町の防衛に気を配っていたことがわかります。戦乱に備えつつ将来の平安な社会を見据え、商業を重視した町の構造はまるで歴史博物館のようで、太平洋戦争で空襲の被害を受けなかったため、古い町並みが残っていて「伊賀の小京都」ととも言われています。
写真は元祖伊賀組紐のお店「廣澤徳三郎工房」です。西大手町の閑静な街中にある糸屋格子の風情ある店構えが歴史を感じさせます。奈良時代以降に日本で作り始めた組紐は、経巻・巻物・甲冑や刀の紐などに利用され、その後、明治維新の廃刀令により武具から帯紐に姿を変え用いられるようになりました。江戸に残っていた組紐の技術・技法を明治35年、初代廣澤徳三郎がこの地に持ち帰り開業したのが伊賀組紐の始まりです。「ゆく秋や 紐くむ人は無言なり」俳優の渡辺文雄(初代・TV食いしん坊 万歳)が伊賀を訪れたときにひねった句で、その紐くむ人とは、伊賀組紐の第一人者、初代廣澤徳三郎のことです。
伊賀組紐は、アニメ映画「君の名は。」で、主人公たちがブレスレットや髪飾りとして身に着け、物語の鍵を握る重要なアイテムとなっている日本の伝統工芸品です。3本以上の絹や綿糸を組んで作るひもで、仏教の伝来とともに渡来すると経典や刀剣、礼服の飾りとして普及し、現在も和装の帯締めなどに使われています。劇中でヒロインが「丸台」と呼ばれる道具を使って、組紐を組み上げる印象的なシーンがあります。映画の中では、緋色のブレスレッドが描かれているので人気とのことですよ。写真は蛇谷堀の北に建つ「伊賀伝統伝承館 伊賀くみひも 組匠の里」です。
外堀の南一帯の通りは碁盤目状に設計され、武士の消費に備えた商人の町には、鍛冶町、魚町、紺屋町など「まち」と呼ばれている往時の地名が残ります。江戸時代、大和街道である本町通り沿いには酒造業や米問屋などが軒を連ね、大阪などの上方の物資の拠点として、また伊勢街道を通じ伊勢の津への流通起点として栄えました。江戸時代と変わらない道幅がそれを物語っており、商家の2階の虫籠窓など様々な形が見所です。
大和街道(東海道関宿の西の追分から加太越奈良道)沿いに鎮座する菅原神社(上野天神宮)は菅原道真公を主祭神とし、古く上野村に祀られていた九社神社を相殿としてお祀りしています。創建は不詳ですが、古くは上野山。平楽寺の伽藍神でしたが慶長16年(1611)、、藤堂高虎による城下町建設の際、この地に奉遷され城郭鎮守として祀られました。藤堂藩の祈願所と定められ、この楼門は元禄14年(1701)から宝永元年(1704)にかけて三代藩主藤堂高久が用木を寄進し建築事業が行われ、様式は総欅造り、入母屋、二重繁垂木、円柱、丸瓦、両袖に随身2躰、裏には狛犬2躰が据えてあります。随身、狛犬は享保5年(1720)に完成し、扁額「菅聖廟」は文政7年(1824)に参議右近衛中将藤原定成が筆したものです。ユネスコ無形文化遺産に登録された「上野天神のダンジリ行事」は祇園祭の影響を受け、約400年もの伝統を誇ります。
天神横丁の一角にある「伊賀牛丼つかさ」は、伊賀牛が手頃に食べれるお店です。深い味わいの秘伝のタレの旨みと肉の香ばしさを最大限に引き出すように焼き方にもこだわって仕上げられています。タレがかかってもベタつかないように、ご飯は少しかためで、ネギと紅しょうがのトッピング付きで、味のバリエーションも楽します。
商人町の南には城内に入れなかった「ちょう」と呼ばれる武士町が置かれ、なかでも忍者が住んだ忍町、鉄砲組足軽長屋が置かれた鉄砲町があります。武者隠しや虫籠窓、長屋門や土塀を構えた風格のある家が点在します
藤堂高虎が城下を整備する際、有事の際には城郭代わりになるよう東の防御を兼ねて8ヵ寺を集めた寺町を散策するのも風情があります。
藤堂藩が統治した津の城下町と上野の城下町を結ぶ伊勢街道沿いに、特に多く立ち並ぶ古い商家建築は城下町の面影を今に伝えています。松尾芭蕉ゆかりの地や史跡・資料館などをめぐりながら、老舗和菓子店にも立ち寄って散策を楽しむのもいいですね。
「芭蕉の面影が今も残る生誕の地で芭蕉に出会う伊賀上野歩き」はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/10103