水沢うどんも堪能!石段が続くテルマエ・ロマエの伊香保温泉

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上毛三山のひとつ、榛名山の北東斜面に位置する伊香保は、江戸時代、草津と並び群馬県を代表する温泉保養地でした。群馬県民のたしなむ“上毛かるた”にも「伊香保温泉日本の名湯」と詠まれていて、「黄金の湯」と「白銀の湯」の2種類の源泉を持つ日本が誇る名湯です。映画『テルマエ・ロマエ』のロケ地にもなったレトロとモダンが融合する石段街をそぞろ歩き、天然温泉はもちろん、名物の温泉まんじゅうや射的などの遊戯も楽しみながら、賑わった歴史と多くの著名人に愛された温泉風情を感じとってみます。

開湯は1900年前の垂仁天皇の時代(BC29年~AD70年)とも1300年前の聖武天皇の時代(7世紀後半~8世紀)ともいわれ、前者なら発見はアイヌ説、後者の場合発見は行基説になります。伊香保はアイヌ語でイカホップ(湯の川)からきているといわれていて、西暦600年前後にこの辺りで狩猟生活をしていたアイヌの目の前でおきた榛名山の外輪山の一つ、二ッ岳の噴火によって湧出が始まり、湯沢をゴンゴンと駆け下ったと伝えられる「黄金の湯」は『万葉集』や『古今和歌集』に収められている歌にも登場する古湯です。

400年以上の歴史を持つ風情あふれる温泉街の中心には伊香保のシンボルである石段街が佇みます。「伊香保」といえば「石段」と答える合言葉のように、伊香保は石段街の温泉地と知られ、温泉の話や歴史を語れば、石段に始まり石段に尽きるといえるほどです。その歴史はなんと戦国時代にさかのぼる。南北朝時代には温泉場は「伊香保露天風呂」付近の狭い谷間にあったものを現在のように谷の斜面に湯を引いて温泉街に移転したのが天正4年(1576)、石段街は長篠の合戦で敗れた武田勝頼が負傷した兵士たちを広い場所で療養させるために当時上州を支配していた真田真幸に命じ造らせたものだといいます。真幸は山を切り拓いて街区を整備、その際、裾野部分が広く山上に向かって狭くなっていくという遠近法的な構造としました。

源泉が高所にあったため、石段を設置し、その中に湯を導くための樋を通して温泉を流し、石段近くに建てられた湯宿へ、引き湯したのです。とても合理的なシステムのため、伊香保温泉は「日本最初の温泉都市計画によって生まれた温泉街」とも呼ばれています。

湯治宿の主、伊香保神社の神宮など郷士7氏を新たに拓いた街区に移住させ、同時に石段を整備し、さらに石段中央に大堰(湯樋)を通して湯元から温泉を引き石段左右に屋敷を配置してクリの生木で作った樋(小間口)で湯を分配したのです。戦国の世も終わり世の中もすっかり落ち着きを見せた寛永16年(1639)、古くから続く伊香保の源泉を守るため引湯権に関する規定が定められました。その際14名の大屋が小間口という引き湯口を持ち、各小間口の大きさ(湯量)も決められたのです。湯量を決める小間口の大きさは、4年ごとに定盤木と呼ばれるものさしでで測って固定されるそうです。それぞれの大屋には門屋と呼ばれる家来筋が土地と洗い場を預けられ石段に面した場所で湯治宿を営んでいました。ですので大屋の広大な屋敷は石段に面しておらず湯治宿の背後に建っていました。

さらに大屋と門屋以外の者は店借と呼ばれ、酒屋や髪結いなどの商売を営んでいました。こうして石段を中心に雛段のように湯治宿や商店がひしめきあう、風情豊かな温泉街が形成されたのです。

また温泉街を含む村の行政は大屋による合議で決まられ、その中から12軒の家が1年交替で名主職を務め、温泉街の治安等を守っていました。9代将軍徳川家重の時代、その12軒には十二支の干支が家紋のように割り振られ、各家の干支の年に名主職が回ってきました。石段をよく見ると今でもそれらの旅館が建っていた場所の石段に、割り当てられた十二支のプレートが埋め込まれていて、自分の干支を見つけて写真を撮ればいい記念になります。12軒の大屋のうち現在残っているのは、子年の小暮武太夫「ホテル小暮」、辰年の岸権左ヱ門「岸権旅館」、酉年の千明三右ヱ門「千明仁泉亭」の3軒のみで、いずれも創業400年を越える老舗温泉旅館で伊香保の顔です。※小間口を持つ宿は現在9軒

レトロな雰囲気を醸し出す「石段街」の前にたち伊香保関所跡から伊香保神社に至る約300m、360段の石段を登ります。平成12年(2010)4月石段は大通りまで延伸され、5段増えて365段になりました。御影石の石段は「1年365日にぎわうように」という思いが込められた何とも縁起の良い温泉街のシンボルです。

温泉には、鉄分豊富で空気に触れて茶褐色になる黄金湯と平成8年に新たに掘られた源泉からの無色透明の白銀の湯があり、それぞれ子宝の湯、美肌の湯と呼ばれるなど効能豊かな湯として親しまれています。

石段94段目の西側に地元の人からも親しまれている瓦屋根の共同浴場「石段の湯」が現れます。浴場は男女とも内湯のみですが、意外にも洋風の石造りで、御影石のぜいたくな浴槽に加温はされていますがライオンの口から黄金の湯がドバドバと掛け流されています。

石段街を5分ほど上り、汗ばんだところで少し振り返ると青空の下、遥か眼下に小野子山や子持山など神々しい国境の山並みが広がっています。山国を勇躍した戦国武将の水際立った地理感覚が造った日本初の計画リゾートに胸がすく思いです。右奥のテレビ塔の立つ山が二ッ岳で、湯沢は温泉街の西端を限る渓流です。

文人たちの社交界だった歴史ある伊香保温泉は、夏目漱石、土屋文明、与謝野晶子など多くの文人墨客から愛されたことでも知られます。なかでも伊香保をこよなく愛したのが大正ロマンの旗手として一世を風靡した竹久夢二や徳富蘆花で、彼らの記念館もあり一日アカデミックな気分に浸ることもできます。歴史ある湯宿には文豪が定宿にしていた宿もあり、泊まってみるのも楽しみです。

辰年の岸権旅館※創業天正4年(1576)前には、伊香保をこよなく愛した文人・与謝野晶子の『伊香保の街』の詩が刻まれた石段に出会います。狭い石段に温泉宿がある風景が描写されています。また岸権旅館前には足湯があり、伊香保の黄金の湯が味わえます。

前橋出身の詩人・萩原朔太郎のエッセイに『伊香保の町は、全部石垣で出来ていると言っても好い。その石段の両側には、土産物の寄木細工を売る店や・・・(中略)中庭に廻廊のある二層三層の温泉旅館が、軒と軒とを重ね合わせて・・・』(石段上りの街)とあるように両側に旅館やお土産店、温泉旅行の気分を盛り上げる遊技場などが並んでいます。365段の石段は散策するのにちょうど良い長さで、いろんな店が軒を連ね、温泉まんじゅうの幟が風に揺れる脇を観光客が通りすぎていきます。この石段を上ったり下りたりしながら、湯めぐりしたり、玉こんにゃくをつまみ歩いたりが伊香保の王道の楽しみ方でまったく飽きさせません。

温泉旅行に欠かせないものといえば、土産としても親しまれている「温泉まんじゅう」。今や全国の温泉街で見られるまんじゅうですが、発祥が伊香保だということはあまり知られていません。伊香保神社のそばにガラス越しにまんじゅう作りが見学できる「湯乃花饅頭」の看板があるお店があります。伊香保といえば明治43年(1910)創業から同じ製法で作られている「勝月堂」です。地元民の「伊香保に名物が欲しい」という要望を受け、伊香保温泉の茶褐色の湯の色をイメージし発案したものです。

奄美大島の黒砂糖を使った皮のもちもちとした食感とぎゅっと詰まったあんことのバランスが絶妙です。北海道産の小豆をたっぷり使い、隠し味に塩が効いたあんこの上品な甘さが、黒糖のほのかに漂う香りとともに口いっぱいに広がり、もう1個、もう1個と何個も食べられる飽きない味です。全国の温泉まんじゅう発祥の店と知られるこの店の味は、伊香保の定番で、出来たてのおいしさは格別です。毎日ひとつひとつ手作りされ、ひとつとして同じ形のものがないちょっとふぞろいな形がいいのです。因みに「清芳亭」の湯乃花まんじゅうもいただきましたが皮のもともち感がまったく違います。

石段街の最上段にあるのが延喜式にも記された垂仁天皇の時代の開基と伝わる由緒ある古社「伊香保神社」です。もともとは榛名山に対する山岳信仰の社で、温泉・医療の神を祀ります。伊香保温泉が子宝の湯といわれることから縁結びの神でもあります。

かつて湯客は寺社に参詣するのが習わしだったことから、上野国三ノ宮として昔から信仰を集めました。江戸期の伊香保の温泉絵図にも伊香保神社を中心に石段街が描かれていて、境内から温泉街が一望できます。

伊香保神社に手を合わせ、湯元通りを共同湯「伊香保露天風呂」に向かいます。途中、湯沢の上流に架かる擬宝珠をのせた朱塗りの「河鹿橋」付近は、群馬県内でも名だたる紅葉の名所で、榛名山系の豊かな自然に恵まれ、もみじ、かえで、くぬぎ、うるしなどが自生してこれらの樹々の紅葉が11月上旬ピークを迎えます。※今年は少し遅いようです。かつてはカジカガエルの鳴き声がよく聞こえたことから命名され、下を流れる湯沢川は鉄分が多く、川床は茶褐色に変色しています。

石段街最上段の伊香保神社から徒歩約10分、河鹿橋からは徒歩2分にあり、第二号源泉のすぐ下にある露天風呂が「伊香保露天風呂」です。伊香保で最もフレッシュな温泉が堪能でき、森に囲まれた静かで開放的な佇まいが人気です。古湯の風情豊かな共同浴場で昔は混浴でしたが今は男女別です。※河鹿橋脇に無料駐車場有

伝統あるかけ流しの黄金の湯と岩や樹木が配置されて伊香保の四季を体感できる趣ある情を堪能できます。湯温が少し違う二つの湯船にわかれていて、鉄分が豊富な黄金色の湯は、入浴するとじんわりと体が温まりはじめ、それから一気に身体が熱くなるほどの温熱効果があります。5月上~中旬には中央のツツジが見事です。ぜいたくにもかけ流されたお湯はかじか橋のかかる湯沢川に流れ込み、そこに棲む河鹿の上気したような声が森に響きます。真冬でも、ここの河鹿がえるは鳴くそうです。

近くにある自噴する源泉湧出口や飲泉所も見どころです。黄金の湯と普通の水を飲み比べることができ、黄金の湯は飲むとその濃厚な鉄味には独特の苦みがあり、昔の休み明けの校庭の水飲み場を彷彿させます。

真ん中の半円は8つある黄金の湯の源泉のひとつである第二号源泉の覗き杭です。

戻る途中、少しカフェで寛ごうと酉年の千明(ちぎら)仁泉亭の敷地内にあるCAFE AND BAR「楽水楽山」を訪れます。千明仁泉亭は、伊香保を愛した明治の文豪徳富蘆花が常宿とし、最後をここの離れで迎えた老舗旅館です。室町時代を代表する連歌師宗祇が文亀2年(1502)に訪れた際、温泉の効能の素晴らしさを「めぐみの湯(仁乃湯)」と称したことが名称の由来です。明治31年(1898)5月、蘆花は新婚5年を記念して愛子夫人と伊香保を訪れ3週間滞在します。同年11月から兄の徳富蘇峰が主宰する「国民新聞」紙上で伊香保を舞台に悲劇の名作『不如帰』の連載を開始し、世に出ました。『上州伊香保千明の三階の障子開きて、夕景色をながむる婦人。年は十八九。品よき丸髷に結いて、草色の紐つけし小紋縮緬の被布を着たり・・・』と冒頭を飾るのが千明仁泉亭です。

店名の「楽水楽山」は孔子の『智者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ』の言葉に因んで名付けられました。言葉の意味は智者が円滑に物事を処理する様子は水が一箇所にとどまることなく流れることにたとえ、仁者が欲に動かされず天命に案ずる様子を不動の山にたとえたといいます。カウンター6席、テーブル25席の寛げるスペースです。ここで本格的なコーヒーをいただきます。

因みにこの日は石段に面した敷地内に水沢うどんの大澤屋の支店が開店していました。

水澤観音の参拝客向けを起源とする讃岐・稲庭と並ぶ日本三大うどんのひとつといわれる「水沢うどん」は、門前下、県道15号線の両脇に、約1kmにわたって14軒のうどん屋(水沢うどん組合加盟店)が軒を連ねています。なかでも「大澤屋」は水沢随一の客席数を誇るということでメディアにもよく出ているのでご存じの方もおられるのでは。“きんは100歳、ぎんも100歳”のきんさんぎんさんの写真と手形がありました。美味しいうどんは長寿の秘訣かもしれません。

大広間には長テーブルが所狭しと置かれ、お客さんがひしめくあう観光地の大型店舗ですが、お店自体はとてもきれいです。

水沢うどんは竹ざるに盛った冷たいうどんを、つけ汁につけて食べる「ざるうどん」がおいしい食べ方らしいので、ざるうどんと舞茸天ぷら2ヶがついた「楓」1375円を注文しました。やや太めで弾力が強くコシがあるツルツル麺が特徴です。地元の契約農家さんが栽培した「天ぷら専用舞茸」の大きいことにびっくりしたのですが、噛めばじゅわっとひろがる舞茸の風味がうれしいです。

お腹も満たされ、通り過ぎていた「水澤観世音」に向かいます。人気の温泉街・伊香保温泉から近い水沢山の麓に建ち、1300余年の昔、推古天皇・持統天皇の勅願により高麗の高僧・恵灌によって開かれた由緒ある名刹。坂東十六番札所 五徳山水澤寺の名称は推古天皇の御宸筆の額名によるもので、「水澤観世音」の名で親しまれています。

参道を登っていき幽玄な仁王門をくぐり本堂に向かいます。仁王門は元禄年間に建立されたもので、間口三間・奥行き二間の「平板銅板葺き重層入り母屋造り」で、仁王尊と風神・雷神が祀られ、極彩色の楼門の上には、釈迦三尊(釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩)が安置されています。

国司高野辺家成公の三女伊香保姫のご持仏であったと伝わる「十一面千手観世音菩薩(秘仏)」をご本尊としてお祀りする本堂は宝暦から天明に至る三十三ヶ年の大改築によって完成しました。古来より融通観音として知られ、衆生の一切の願を融通し、救いの手をさしのべてくださる霊験あらたかで、特に七難即滅七福即生のご利益が顕著といいます。

正面向拝、軒唐破風は近世建築特有の華麗さを表し、全体的には中世の建築様式を残す五間堂として重要な遺構です。すべての彫刻は彫り抜きとなっていて透かし彫りや丸彫りを駆使しさまざまな装飾が見てとれます。

我が国の地蔵尊信仰の代表的建造物である「六角堂」は、元禄年間に建立された銅版瓦棒葺の造りで「六地蔵尊」を安置しています。六地蔵尊とは地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間界(放光王地蔵尊)、天人界の六道を守る地蔵尊で六道輪廻の相を表しています。二階には大日如来をお祀りしています。

地蔵尊を安置した内部の非常に珍しい回転する台座を左に3回廻しながら祈願すると自身の真心の供養になるといいます。

六角堂の右手には十二支の守り本尊が並んでいます。れ十二の方位には、そこを守る8体の守護仏がいるとされ、その方位と同じ生まれ年(干支)の守護仏になるとされている守り本尊は、古来より開運・厄除けの守護仏として人々に親しまれています。

水の五徳が由来の「五徳山」の山号を持つ水澤観世音。その境内に湧き出る霊泉の中央には、金運アップの「龍王辨財天」が安置されています。

古くから当山を鎮守する「飯縄大権現」

山に響く鐘の音は、仏様の声とも言われていて、一打100円の志納金で「大和の鐘」をつける鐘楼堂、

など境内におは開運スポットが点在していて散策が楽しめます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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