「古代ロマンの里」という枕詞とともに語られる飛鳥。明日香村周辺が飛鳥時代だった頃、ここは日本の都でした。日本のはじまり―飛鳥。1400年以上も昔、推古天皇の時代から約100年間、6世紀から7世紀に渡り、豊浦宮など、飛鳥時代には数々の天皇の宮が置かれ政事が営まれていました。「乙巳の変」の歴史舞台として、また万葉集でも数多くの歌が詠まれた地で、万葉歌碑がいくつもあります。今も変わらない青垣の山々、のどかな里山風景に古代から続く悠久の時の流れを感じます。そんな飛鳥には、古社寺や古墳、神秘的な石造物などが点在し、古代ロマン薫る飛鳥ヒストリーに、思わず想像力がかきたてられます。日本の原風景にこころ癒される飛鳥を便利なレンタサイクルに乗って古代ロマン薫る風を感じながら巡ってみます。疲れたら、地元の味に出会えるお店や、古民家のカフェでほっとひと休み。いろんあ楽しみが見つかります。
謎と伝説の古代ロマンの地・飛鳥地方。1600万年前の古代へと、気軽にタイムスリップ気分を味わえるのが「古代ロマン飛鳥日帰りきっぷ」を使った旅です。関西の私鉄沿線から日帰りで飛鳥を自由に楽しめるので断然お得なきっぷです。近鉄に乗り継いで飛鳥を訪ねる往復乗車券に飛鳥周辺の奈良交通バス、レンタサイクル、施設・店舗の割引チケットがセットになって1850円(阪神版)です。チケット2枚の使い方は様々でいろいろ考えます。今回はレンタサイクルを使ってめぐるので2枚とも割引に使います。ハイキングの場合は行きは歩いて帰りはバスなら1枚はバスの乗車券に、もう一枚は物販・飲食の割引に、行きも帰りもバスなら2枚ともバスの乗車券に使えます。
近鉄吉野線で橿原神宮前まで特急で行き、各駅に乗り換えて近鉄「飛鳥駅」に到着です。大人になってもう一度古代史を少しおさらいしてから訪ねると、その舞台は想像以上にロマンティックで神秘的です。 里中満知子のKCコミック「天上の虹」の①~③を読んでいくとまた面白く見れる。まずは近鉄飛鳥駅で日帰りきっぷの特典を利用して駅前の明日香レンタサイクルへ。自転車を借りて飛鳥の旅を始めることにします。
明日香村の象徴ともいえる「石舞台古墳」は、大小約30個以上もの花崗岩の巨石を積み上げた古墳で、日本最大級の横穴式石室を持ちます。築造は7世紀の初め頃と推定され、元々は1辺約55mの方墳だったとされていますが、早い時期に古墳上部の盛土が失われ、現在は巨大な石室が露出した姿となっています。その形状から『石舞台』と呼ばれるようになったと言われれ、昔々狐が女性に化けて石の上で舞を見せた話や旅芸人がこの巨石を舞台に演じた話などが残っています。
使われた石の総重量は約2300tと推定され、天井石は約77tにもなります。玄室は思った以上に広々とし、天井は見上げるほどで、高さは約4.7mあります。埋葬された人物は不明ですが、乙巳の変で滅ぼされた蘇我入鹿の祖父・蘇我馬子の墓ではないかといわれています。国営飛鳥歴史公園石舞台地区のこの一帯は「島庄」といわれ強大な権力を持っていた蘇我氏の居住地でした。自然の中に邸宅があるのが一般的だった当時、馬子はわざわざ庭園を造りそれゆえ「島の大臣(おとど)」といわれたといいます。石室が露出しているのは、馬子の専横ぶりに反発した後世の人が封土をはがしたためと伝わります。
飛鳥という時代があった。飛鳥という謎が残った。 奈良県明日香村、飛鳥。大きな空に向き合うように、石舞台古墳は横たわっている。七世紀、飛鳥は国づくりの夢と野望の舞台だった。百年の歳月を通じて、日本という国の礎を築いた。そして多くの史跡は土に眠り、飛鳥は歴史に謎を残した。明日が香るという里で、古代が描いた物語を辿る旅。あなたはあなたの飛鳥に出会う。JR東海「うましうるわし奈良」より
次の目的地は「岡寺」。明日香村の中心地が岡の集落で、石畳が敷かれた道の先に鳥居が見え、古い家々が並び立つ参道は急な坂道とあってひたすら上ります。仁王門手前のさらに急な上り坂を自転車を押して上りきると緑に包まれた境内が目に飛び込んできます。飛鳥時代末から奈良時代初めの創建と伝え、天武天皇の皇子である草壁皇子の岡宮を法相宗の義淵僧正が拝領して天智天皇の勅願により天智天皇2年(663)に創建されたのが厄除で有名「岡寺」で正式名称は東光山龍蓋寺といいます。
この寺の近くに悪龍がいて義淵僧正が法力によって小池に封じ込め、大石で蓋をしたという伝説が原点になっており、本堂前に「龍蓋池」が今もあります。
近畿圏を中心に2府5県の広がる観音霊場、西国三十三所は大和国長谷寺の開山・徳道上人が養老2年(718)に創設した日本最古の巡礼路といわれ、その道程は約1000kmにもおよびます。その西国三十三ヶ所第七番札所が岡寺です。日本最初の厄除け霊場で歴史物語『水鏡』にも記載があります。厄除け観音として信仰を集める岡寺参詣の最大の魅力は、なんといってもご本尊の如意輪観音菩薩坐像(重要文化財)です。弘法大師の手になるという、日本、中国、インドの土で造ったとされる高さ約4.85m、日本最大の塑像は、奈良時代末期の作といわれ、くっきりとした目鼻立ちの豊満なお顔が、中国唐代の仏像に通ずるところです。
境内の龍蓋池を望みながら奥の院へ。稲荷神社の右手、山の斜面に奥の院があり、弥勒菩薩が坐す洞窟や義淵僧正霊廟を拝し、三重宝塔から飛鳥の里景色を望むます。
県道15号に戻り、2km程静かな通りを快適に走り、明日香村役場の北、小さな丘陵に囲まれた平地にポツンとある蘇我馬子邸に隣接していた皇極天皇宮殿跡「伝飛鳥板蓋宮跡」を訪れます。大化元年(645)6月12日、高句麗、百済、新羅からの使者が天皇への貢物を捧げる華やかな外交儀式が執り行われていた宮殿で起きたクーデター“乙巳の変”、皇極天皇の目前で、中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を斬殺した舞台です。この時、中大兄皇子20歳、中臣鎌足32歳でした。
飛鳥の真ん中にあるここが古くから板蓋宮跡と伝承され、昭和38年(1963)、飛鳥寺南側の田んぼの中に発見された大井戸を囲むように、石敷き広場や石組みの井戸など宮殿の遺構が復元されています。宮殿の屋根を茅や柿葺と違って板葺きにしたためこの名でよばれていますが、この遺構は天武天皇の飛鳥浄御原宮のものとみられ、皇極天皇の板蓋宮はさらに下層に埋まっているといわれています。さらに斉明朝の後飛鳥岡本宮もあったとのことで最初の舒明天皇の飛鳥岡本宮も含め5代4つの宮が継続して置かれていたことが判明していて、平成28年に飛鳥京跡と改められました。かつての日本の首都であった飛鳥には今は何事もなかったかのように、のどかな明日香風が吹いています。
「飛鳥の 明日香の里を 置きて去なば 君があたりは 見えずかもあらむ」と詠まれた「とぶとりの明日香」とは、いわば決まり文句。明日香という土地の素晴らしさを褒め称える表現で、そのことから「飛鳥」と書いても「あすか」と読むようになりました。
さらに自転車をこぎ、現在では、『日本書紀』にみられる斉明天皇の「両槻宮(ふたつきのみや)」ではないかと推定されている奈良県立万葉文化館に隣接する2000年に見つかった亀形石造物を含む丘陵一帯に広がる遺跡「酒船石遺跡」を過ぎる。
さらに北上すること6分程で飛鳥大仏の看板が見えてきます。飛鳥大仏で有名な「飛鳥寺」自体は現在、安居院だけの驚くほど小さなお寺です。飛鳥寺は推古4年(596)に権力闘争に勝利した蘇我馬子が先進文化の仏教を基盤として厩戸皇子とともに国造りを行っていこうとし、「仏法興隆」の拠点として発願し建てられた東西210m、南北320mの寺域に塔を3つの金堂が囲む日本初の本格的仏教寺院でした。法興寺とも元興寺ともいわれましたが、平城京遷都で移転し、現在のならまちにある元興寺に。今では創建時の伽藍は失われ、塔や金堂の礎石だけが残っているだけです。入鹿を暗殺した後、蘇我氏の反撃に備えて中大兄皇子らが立てこもったのが飛鳥寺でした。
本尊である銅造釈迦如来坐像(重文)は「飛鳥大仏」の通称で親しまれており、609年推古天皇が仏師・鞍作鳥に造らせたとされる日本最古の仏像です。アーモンド型の眼やアルカイックスマイルといった大陸風の凛々しいお顔立ちが特徴です。 仏像よりお堂が先に完成し、入口より大きい仏像を入れるという不可能なことを、止利の秘技で入口を壊さず、その日のうちに納めたという逸話もあります。1400年もの間、この地で飛鳥を見守ってきた大仏様です。
止利仏師というのは鞍作鳥(くらつくりのとり)とも呼ばれ、法隆寺の釈迦三尊像や飛鳥寺の釈迦如来像(飛鳥大仏)の作者とされる飛鳥時代の仏師。飛騨河合町には彼の生誕伝説が残っていて、天生峠には止利仏師の屋敷跡といわれる場所もあります。昔々のこと、天生峠近くの余部の里の農夫九郎兵衛の娘で「しのぶ」というそれはそれは醜い村娘が住んでおった。あまりの醜さに嫁の貰い手がなかったそうな。ある時しのぶが、満月の夜に月の光が映った小鳥川の水をすくって飲みほすと、あら不思議。妊娠してしまい、しのぶはさらに奥の山に隠れた田形(天生湿原)で安らかに男の子を産んだそうな。生まれた子供は赤毛でギョロ眼、鼻がひどく出っ張っておった。これは鳥に似ているということで、その子供は「鳥」と呼ばれるようになって、成人して都に出て立派な工匠となったといいます。
飛鳥寺の西側には鎌倉時代に作られた「蘇我入鹿の首塚」である五輪塔があり、蘇我氏の大邸宅があった甘樫丘を望む。飛鳥板蓋宮で暗殺された入鹿の首が600m離れたここまで飛んできたと伝えられています。またこの一帯は乙巳の変以前に、中大兄皇子と中臣鎌足が蹴鞠の会で初めて出会った社交の場、「槻(つき)の木の広場」の推定地とされています(飛鳥寺西方遺跡)。 天皇中心の政治体制を確立し、日本で最初の元号「大化」が始まった地、明日香と桜井。歴史の舞台を歩くと、飛鳥人の足音や声が聞こえてくるようです。
さらに北上して突き当たりを右に曲がるとその突き当たりが「飛鳥坐神社」で、段を上った先、小高い丘の上に本殿があります。大国主命の第一子で八十万の神々を率いて飛鳥に鎮まったと『古事記』に記されているパワフルな神様、八重事代主神を祀る古社で、日本書紀に朱鳥元年(686)に天武天皇の病気平癒を願って奉幣がなされた記述がある。飛鳥浄御原宮の守護神として奉祀されていたが神託を受け、天長6年(829)神奈備山から現在地に移転しました。この神様に縁結びをお願いすると、その八十万の神々の中から祈願者に最もふさわしい守護神を選んでくださり、良縁を授けていただけるとか。ちなみに延喜式内の古社で、崇神天皇の時代から一族でこの神社の宮司を受け継ぐ家系の名字は「飛鳥」さんです。
神社の脇を走るとそこは「小原の里」、大和国高市郡藤原で推古22年(614)中臣鎌足が誕生した地と伝えられています。万葉集でもたびたび詠まれるこの地に鎮まる大原神社、その裏手には、鎌足が産湯に使ったとされる井戸があります。また神社のすぐ近くにある「大伴夫人の墓」は、鎌足の生母の墓とされる円墳である。なお大原神社と大伴夫人の墓の前の道は、鎌足を祀る談山神社への表参道とも言われます。
ここからは暫く寺院跡巡りになります。飛鳥は今から1400年前、約1世紀に渡って政治・文化の中心である帝都が営まれました。日本の国家成立の舞台となった地であり、シルクロードの東の終着点として、多くの渡来人たちによって新しい知識や技術がいち早くもたらされた国際都市でもありました。特に中国・朝鮮からの仏教伝来に伴い、多くの寺院が建立され、仏教を中心とする貴族文化が華やかに開花したのです。しかしながら飛鳥時代、「飛鳥・藤原」の地に建立された寺院の多くは。当時の姿をそのまま留めてはいません。遷都した時に平城京に遷った寺院もあれば、同地で存続した寺院もあり、長い時間の中で当初の形を失い、地中に遺構が残る場所もあります。数々の物語を秘めたこれらの歴史遺産に出会う時、古代へのイメージが限りなく広がります。
まずは県道15号を北へ、県道124号との奥山交差点を桜井方面に向かい「山田寺跡」に向かいます。蘇我倉山田石川麻呂が641年に発願した山田寺は、飛鳥時代を代表する初期仏教寺院の一つです。649年の石川麻呂の死去により造営は中断された後、石川麻呂の孫の鵜野皇女(後の持統天皇)の援助によって再開されました。山田寺跡にも今も建物の基壇や礎石が残っています。昭和51年(1976)以降の発掘調査によって、山田寺は東西118m、南北185mもの大寺院であったこと、また、南門・中門・塔・金堂・講堂が南北一直線に並び、回廊が塔と金堂を囲む伽藍配置であったことが明らかになっています。685年に開眼供養が行われた本尊の丈六薬師仏は、平安時代の日記『玉葉』によると文治3年(1187)に興福寺東金堂の宗徒が押し入り本尊として迎えられましたが、応永18年(1411)の東金堂の火事で焼け落ち、残った仏頭が現在の興福寺に現存します。
次に明日香村に戻り、まずは「奥山久米寺跡」に。民家の間のつつましい佇まいで聖徳太子の弟久米皇子の創建といわれますが謎とのことです。蓮華文様をつけた現存最古の鬼瓦をはじめ、7世紀の瓦が多数出土している。塔跡が残り、心礎の上に鎌倉時代の十三重石塔が建っています。
近くに「大官大寺跡」もあります。大官大寺は飛鳥・藤原地域で建立された古代寺院の中では最大の寺院なのですが、現在は、香具山の南麓に広がる水田の中に碑が建ちその位置が分かるのみです。大官大寺は、日本書紀によると、聖徳太子によって平群に創建された「熊凝精舎」を、舒明天皇が百済川畔に移し、「百済大寺」といい、次いで天武天皇は天武2年(673)に、この飛鳥の地に移し「高市大寺」といったが、同6年(677)、天皇の寺という意味の「大官大寺」と改称したとあります。
しかし、発掘調査の結果で現在の大官大寺跡の伽藍は、文武朝のものであることが確認され、書紀に記された天武朝の高市大寺は別にあったと考えられ、7世紀後半~末にかけて国家の経営する大寺として、飛鳥三大寺(大官大寺・川原寺・飛鳥寺)の筆頭となり、飛鳥の大寺院の一つとして荘厳をきわめたといわれます。その後、平城遷都とともに寺籍を新都に移し天平17年(745)に寺号を大安寺とし、旧寺は和銅4年(711年)藤原京の大火で焼失してしまったとのことです。
更に古代浪漫を求めて県道124号に戻り西へ。「豊浦宮跡・豊浦寺跡」「小墾田宮跡」に向かう。途中には雄略天皇が小子部栖軽という臣下に雷を捕まえるように命じこの丘で雷神を捕まえたという「雷丘」を巻くように進む。柿本人麻呂が「大君は 神にしませば 天雲の雷の上に 庵りせるかも」と詠んだところです。
『日本書紀』によれば欽明13年(552)10月百済の聖明王が初めて我が国に仏像、仏典をもたらしたとき、蘇我稲目は釈迦像を譲り受け、小墾田の向原(むくはら)の家を浄めて寺としてこれを信奉したといいます。これが後の豊浦寺の前身で我が国の仏教伝来根元最初の寺院・向原寺です。しかし、その直後に疫病が流行し、その原因が仏教を受け入れたせいだとして、反対派の物部尾輿らに寺は焼かれてしまい仏像は難波の堀江に投げ込まれました(それを拾ったのが長野の善光寺ゆかりの本田善光)。
日本最初の女帝である推古天皇は592年に即位しますが、崇峻天皇暗殺から間もない時であったため、新たに大規模な宮殿を築かなかったとする考えがあり、それが蘇我氏の邸宅の一部を転用した豊浦宮と考えられており飛鳥時代の幕開けとされます。その後推古天皇11年(603)10月、推古天皇は「小墾田宮」に宮を遷しました。現在甘樫丘近くに建つ向原寺は、豊浦宮跡地に蘇我馬子が、法興寺(飛鳥寺)の妹寺を建てたのが「豊浦寺」です。桜井道場あるいは桜井寺とも呼ばれた日本最古の尼寺で、百済仏教伝来の寺、元善光寺です。豊浦の地が蘇我氏の勢力圏内であったことはよく知られており、蘇我氏の基礎を築いたとされる蘇我稲目はこの地に邸宅を持っていました。
またかつての推古天皇の甥である聖徳太子が摂政として巧な政治を行ったとされる「小墾田宮」も今は土壇に一本の木を残すのみである。
飛鳥川沿いに甘樫丘の北辺を進み「飛鳥水落遺跡」に立ち寄る。日本書紀によると中大兄皇子が斉明6年(660)に造った漏刻という日本初の水時計を造った跡と推定されています。銅管などが出土していて、柱穴には、現在復元された25本の柱が立てられている。
さらに左手に飛鳥の要衡である標高148mの緩やかな小高い丘・「甘樫丘」を見ながら飛鳥川沿いの“飛鳥葛城自転車道”を3km程走ります。かつて麓に蘇我蝦夷・入鹿父子がそろって広大な邸宅を構えていたといい、乙巳の変の際、蝦夷が自ら火を放って自害したとも伝わります。飛鳥盆地の西北に位置する甘樫丘は、允恭天皇の御代に熱湯に手を入れて正邪を判断する盟神探湯(くがたち)が行われていたという聖なる場所です。国営飛鳥歴史公園甘樫丘地区には『万葉集』に歌われた植物が植えられ、散策路を15分ほど歩くと、畝傍山、耳成山、天香具山の大和三山が見渡せる山展望台に着きます。
国を生んだ里 眼下に飛鳥の里がある。その先に身を伏せるように、大和三山が緑を茂らせている天香具山、畝傍山、耳成山。標高二百メートルに満たない三つの山は、飛鳥人の心の聖地だった。万葉集にもうたわれた風景がいまもここには息づいている。歴史を生み、文化を生み、日本という国号発祥の地。今日を築いた過去が棲む里。JR東海「うましうるわし奈良」より
県道155号に出て「橘寺」に向かいます。ここまで約10kmを寄り道しながら3時間ちょっと走ってきたことになります。橘寺の向かいに川原寺跡があり先に「川原寺跡」に寄ることにしました。川原寺は弘福寺とも称され、天武朝には飛鳥寺、本薬師寺、大官大寺とともに飛鳥四大寺に数えられ、斉明天皇の冥福を祈り、斉明天皇の居住した川原宮を息子の天智天皇が寺に改めたものと言われていますが、未だ創建については謎が多く残されている寺です。現在は弘福寺が川原寺からの法灯を繋いでいます。中金堂跡に川原寺という小寺が残り、中が食事処になっています。
「橘寺」は厩戸皇子(聖徳太子)生誕の地とされ、かつてこの地に「橘の宮」という欽明天皇の別宮があり572年厩戸皇子(聖徳太子)はここで誕生したとされている。聖徳太子建立の七ヶ寺の一つで、建物は何度も焼失し、現在の伽藍は江戸時代以降のものですが、美しいタチバナ形の塔心礎が当時を物語っています。
本尊は35歳の姿の聖徳太子像で、606年推古天皇の命を受けた聖徳太子が「勝鬘経」を三日間にわたって講説した姿といわれています。その際大きな蓮の花が庭に1mも降り積もり、南の山に千の仏頭が現れて光明を放ち、太子の冠から日月星の光が輝くなど、不思議なことが起こったといいます。驚いた推古天皇は、ここに寺を建てるよう皇子に命じ、それが橘寺の始まりとされています。
そんな橘寺の本堂前にあるのが「黒駒」像で、脚首のみが白く、他の馬とは比べようもないぐらい足が速かったといいます。太子は黒駒にまたがり、さまざまな地を巡ったとか。この黒駒は太子を乗せて空を駆け、三日三夜経っても疲れる様子がなかったと伝わります。
往生院には著名な画家の華の絵画260点が奉納されていて華の浄土を表現されている。境内にある善面と悪面2つの顔をもつ謎の石造物「二面石」も必見です。
時間はとっくに12時半を過ぎ、走り疲れも出てきた頃、明日香村役場のまん前にある、昭和3年(1928)築の民家を改装した喫茶店「珈琲さんぽ」にとびこみます。自家焙煎の豆を一杯ずつハンドドリップしてつくるこだわりのコーヒーが飲める明日香村の小さな珈琲店です。飲んだあとに心地いい余韻が残る上品な味わいがひかります。
おすすめは、お昼のランチの「海南鶏飯(1000円)」です。ハイナンチキンライスとも呼びますが、その昔、中国の海南島の人たちがマレーシアに移り住んで考え出した料理だと言われ、現在マレーシアのソウルフードということです。お皿に御飯と蒸鶏ときゅうりとミニトマトが盛られていて、これにチリソースと生姜醤油をかけ、混ぜて食べるとのことで綺麗な盛り付けを壊すビビンバのようなものですが、これが絶品です。(店主の奥さまがマレーシア人とのこと)
再びスタートです。県道155号から逸れて中央公民館の裏から細道を走りのどかな田園の一角にある「亀石」を過ぎそのまま道を飛鳥駅方面に走らせると左手に小高い丘のようなものが現れます。「天武・持統天皇稜」で律令政治を整備し、古事記の編纂を命じた天武天皇と夫の死後即位し、藤原京遷都を行った持統天皇の合葬墳。天皇として初めて火葬された女帝の遺骨は銀の骨壷に納められ、夫の棺に寄り添うように安置されたと言われます。墳形は当時の天皇家特有の八角形の五段築造。周囲には小経があり、ぐるりと一週できます。江戸時代に盗掘された時の記録により内部の様子がわかり、両天皇の陵と判明しました。国の形を整えた二人の御陵は飛鳥の風景となって静寂の中にあります。
もとの道に戻って「鬼の雪隠」と少し上った所にある「鬼の俎板」と呼ばれるこれもまた不思議な石造物を見、ここからサイクリングにも最適な田畑に囲まれた飛鳥周遊歩道を走りさらに下って行きます。そのつきあたりが最後に向かう「欽明天皇稜」です。全長140m、明日香村内最大の前方後円墳で墳丘の緑と濠が美しい「欽明天皇稜」は、570年に死去した欽明天皇と、后で蘇我馬子の妹の堅塩姫を合葬した檜隈坂合陵とされています。
その入口西横には天智天武の祖母・「吉備姫王墓」があり、墓域内には年代や制作理由も不明の、猿を思わせる顔の石造物「猿石」があります。
これで飛鳥の里サイクリングも出発地点に戻ってきたました。今回の飛鳥周遊コースは約13kmで約5時間(施設見学と昼食含む)の行程でした。まだ体力と時間のある方はオプションコースとして、岡寺駅から「益田岩船(登山に5分ほどかかる)」「マルコ山古墳」で飛鳥駅に戻る5.3KMのコースや、壺坂山駅から「キトラ古墳」「高松塚古墳」で飛鳥駅に戻る4.8kmの飛鳥満喫コースもあります。
車ではアクセスしにくい細い道にある飛鳥の見所も楽に行けることから、飛鳥はサイクリングで巡るのが断然お勧めです。バスと違い乗車時刻を気にせず観光できるのも利点です。
飛鳥の里サイクリングで訪れた不思議な石造物の詳しい記事 「古代浪漫の里・飛鳥に残る謎の石造物を巡るサイクリング」はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/11554