明月院ブルーに感動!北鎌倉でアジサイが楽しみな名刹を訪る

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春から初夏へ。花は桜からアジサイへと主役が代わり、新緑が眩しい季節。鎌倉は言わずと知れた初夏の風物詩アジサイの名所が多く、最もにぎわう季節でもあります。なかでも狭いエリアに歴史を感じさせる見どころ寺院がいっぱいの北鎌倉は、各寺の境内が青、白、紫・・・のアジサイで埋め尽くされます。今回は北鎌倉駅からのんびり歩き、「あじさい寺」としても知られる明月院を訪れます。そしてランチはお洒落に。

JR横須賀線北鎌倉駅から明月院通りを進み、徒歩約10分、まずは早朝一番、明月院ブルーと呼ばれる鎌倉を代表する紫陽花の名所「明月院」に向かいます。永歴元年(1160)に平治の乱で戦死した山内首藤刑部大輔俊道の菩提を弔うためにその子経俊によって創建された明月庵が起源とされる。その後鎌倉幕府5代執権・北条時頼が康元元年(1256)に持仏堂として創建した最明寺、禅僧・蘭渓道隆が再興した禅興寺の小寺院を経て、康暦2年(1380)に管領上杉憲方が寺院を拡大し、名を明月院に改め、禅興寺の支院の首位に置かれました。禅興寺は明治初年に廃寺となっています。開門は8:30にかかわらず7時ですでに総門前に10人待ちの列ができていました。

開門されると総門が見えてきます。この門はアジサイのシーズン以外は閉鎖されています。花頭窓が目を引きます。

開門と同時に桂橋の階段を渡って本堂へと続く表参道を進んでいきます。山門に至る鎌倉石の参道の両脇に約2500株のヒメアジサイと呼ばれる日本古来種の紫陽花の手毬のような青い花と葉がせりだし、参拝客を出迎えてくれます。寺院全体を青色に染め上げていることから「明月院ブルー」と呼ばれます。ヒメアジサイは日本の植物学の父と呼ばれる牧野富太郎によって名付けられました。初めは白っぽかった花がスカイブルーになり、やがて「明月院ブルー」と呼ばれる濃く鮮やかな青へと変わります。

山門を通り進んでいくとご本尊の聖観世音菩薩を祀る本堂(方丈)に到着します。本堂の右側に有名な「悟りの窓」があります。本堂の障子が開放されている時に見ることができ、大きな丸窓には、禅の心と真理の意味が込められていて、さらに宇宙をあらわしています。

悟りの窓」から望めるのは、本堂の裏手に広がる有名な後庭園(通常非公開。花菖蒲の時期と紅葉の時期に特別に公開)です。窓越しに見える新緑の光景はまるで絵画のように美しい。

本堂の前には須弥山をかたどり仏教感を表現している枯山水庭園があります。一面に敷かれた白砂には水流をあらわす砂紋が描かれています。

境内を散策してみます。本堂の左奥には「開山堂」があります。禅興寺の隆盛期に建立した宗猷堂を後に開山堂としたもので、堂内中央に中興開山密室守巌禅師の木造、左に最明寺、禅興寺、歴代住職の位牌が祀られています。

開山堂の入り口に「花想い地蔵」が鎮座しています。優しい表情のお地蔵様の手元に季節のお花が盛られますが、この時期は紫陽花。ネックレスも同系色で飾られています。

開山堂の左側には「明月院やぐら(羅漢洞)」があります。間口約7m、奥行6m、高さ3mの鎌倉市内最大級の洞窟墓です。内部の壁面には中央に釈迦如来像4,脇に十六羅漢像が彫られ、関東管領上杉憲方の墓とされる宝篋印塔を安置され、鎌倉石の大きな高炉が据えられています。

開山堂の右側には、「(つるべ)の井」と呼ばれる井戸があります。こちらは水質があまり良くなかった江戸時代に、良質な水が湧いたと伝えられる「鎌倉十井」のひとつです。岩盤を掘り抜いた井戸で、内側が水瓶のようにふくらんでいることが名前の由来です。

山門下の正面参道だけでなく、渓谷道、中参道、風の小径などアジサイ鑑賞の散策路が整備された境内を歩きます。歩いても歩いてももこもこと手毬のように咲き誇ったアジサイの花が小径のギリギリまで覆い、まるで壁のように高く成長したエリアもあります。

参拝の後にアジサイをモチーフにした絵馬を奉納してはどうですか。帰る際に通る車道など境内の至る場所で両側に紫陽花が植栽されています。

鎌倉街道(県道21号)を鶴岡八幡宮方面に歩くと、鎌倉五山の第一位の古刹で建長5年(1253)に北条時頼が創建した山懐に抱かれた見どころ豊富な歴史ある禅寺「建長寺」があります。鎌倉五山とは、中国の五山制度に倣ったもので、禅宗で最高位に格付けされた寺院のこと。室町初期に鎌倉と京都に設置され、室町三代将軍足利義満の時代に現在の鎌倉五山が正式に定められました。アジサイの寺ではありませんが、北鎌倉で巨刹建長寺ははずせません。臨済宗建長寺派の本山で宋から来日した蘭渓道隆が禅を広めた寺で、三門、仏殿、法堂など主要な建物が一直線に並ぶ伽藍配置に宋の様式が見られます。“建長汁(けんちん汁)”が生まれた寺としても知られます。

三門から順番に禅宗様式の意匠を堪能しながら、最奥の半蔵坊まで登れます。最初の総門(巨福門)は天明3年(1783)に京都で建立されたものを移築されたもので、扁額に書かれた「巨福山」は建長寺の山号。中国出身の第10代住職・一山一寧の筆で、「巨」の字に点がついていることで百貫の値打ちが出た「百貫点」と呼ばれます。

威風堂々とした三門は、災害にいる消失と再建を繰り返し、現在の門は安永4年(1775)建立。三門とは「三解脱門」の略称で、門をくぐれば解脱できるといわれる。高さ約30mの巨大な門は、銅板葺きの二重門(二階建て)で柱の上だけでなく途中にも組物が配された重厚感のある禅宗様式の佇まい。壁や門扉を持たず、初層に仁王像などを置かない簡素な造りで禅の世界を体現しています。上層には五百羅漢象を安置しています。

三門の右手脇にある梵鐘は、高さ2mの創建当時から残る数少ない遺構で国宝。円覚寺、常楽寺の鐘と並ぶ鎌倉三名鐘のひとつで、慶長7年(1255)北条時頼の発願により関東の鋳物師の筆頭であった物部重光が鋳造しました。この鐘を夏目漱石は明治28年(1895)九月『鐘つけば 銀杏散るなり 建長寺』と詠みました。これを参考に親友の正岡子規が『柿くえば 鐘が成るなり 法隆寺』を作りました。

境内を奥に進むと仏殿。屋根は、入母屋造ではなく寄棟造なのが特徴です。

仏殿には室町時代に造られた本尊で釈迦仏が多い禅寺の本尊としては珍しく地蔵菩薩坐像を安置しています。像高は約2.4mもあり、内部には格子天井の見事な絵や欄間の華麗な彫刻など、当時の職人の高い技術がうかがえます。

続く法堂の天井には縦10m、横12mに及ぶ大迫力の雲龍図が描かれています。禅宗では法の雨(仏教の教え)を降らせるという意味で、」法堂に雲龍図を掲げるのが一般的ですが、建長寺にはなかったため、鎌倉に暮らしていた日本画家・小泉淳作氏が平成8年に1年以上の歳月をかけて描かれました。今にも動きだしそうな迫力満点の力作で、中国で五爪の龍は天下を治める者を意味する天子の象徴です。

方丈に入る唐門は増上寺から正保4年(1647)に移築。元は江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の妻、お江の遺体を葬送前に安置した霊屋の門でした。

方丈は昭和18年(1943)に総門とともに京都般舟三昧院から移築したもので、その背後に広がるのが、初代住職、蘭渓道隆が作った創建当時から残る国指定史跡の庭園、方丈庭園です。優美な曲線を描く池の形は、漢字の「心」をかたどっているといわれ、池の周りを囲むようにバランスよく緑が配されています。

245段の階段を登った先、境内の最奥部(勝上嶽)に半蔵坊権現が祀られている半蔵坊があります。半蔵坊は、禅寺の修行中に食事の支度などをしていた人物が、のちに天狗の姿をして現れたという伝説に由来し、修行僧が完全な僧の姿ではなかったことから「半ば僧にあって僧にあらず」として半蔵坊と名付けられました。明治23年(1890)当時の住職・霄貫道和尚が霊夢を見たことをきっかけに静岡・浜松の奥山方広寺半蔵坊から勧請したもので、火伏せの神として知られ、本殿周辺には守護神である天狗像が10体以上建ち並ぶ強力なパワースポットです。

半蔵坊から先は、十王岩や大平山などをめぐり、瑞泉寺まで続く天園ハイキングコースのスタート地点でもあります。        「古都の山も街も堪能する尾根歩き!鎌倉アルプス天園ハイキング」はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/23874

鎌倉街道(県道21号)沿い明月院バス停から住宅街の少し奥まったところにひっそりと佇むのが鎌倉五山の第4位 金宝山「浄智寺」です。若くして亡くなった北条時頼の三男・宗政の菩提を弔うため弘安4年(1281)に創建。臨済宗円覚寺派に属します。紫陽花がたくさん咲いているお寺ではないのですが落ち着いた古き良き風情が禅の心を息づかせています。

谷戸の風情を象徴する古式ゆかしい総門は、江戸時代後期に建てられたとされ、内側に控柱を持つ高麗門形式です。門に掲げられ扁額「寶所在近」は、円覚寺の開山である無学祖元(仏光禅師)と筆と伝わる。「宝のある場所(悟りの世界・心の平穏)は遠くではなく、すぐ身近にある」という意味を持ち、仏の教えや日々の修行の大切さを説いています。総門の手前、池の脇には鎌倉十井の一つに数えられる名水「甘露ノ井」があります。

総門をくぐるとその先には苔むし、すり減った美しい鎌倉石の石段が真っ直ぐに伸び、その先にある中国風の「鐘楼門」を美しく見通すことができます。三門は鎌倉で唯一の中国式鐘楼門で花形に作られた花頭窓の上層部に梵鐘が吊るされた珍しい様式です。2007年に再建された鐘楼門には、江戸時代の文人・石川丈山の筆による「山居幽勝」の扁額が掲げられています。

曇華殿と呼ばれる仏殿

仏殿内部には南北朝時代に作られた過去(阿弥陀如来)現在(釈迦如来)未来(弥勒菩薩)を象徴する木造三世仏坐像を安置しています。

仏殿の裏手には大将13年(1924)に建てられた茅葺き屋根の素朴な造りが特徴の書院があり、庭園にはアヤメやツキミソウ、ウメなどが植えられ風情たっぷりです。

境内裏手、鬱蒼とした林を抜けて小さなトンネルをくぐった先に足をふみいれるとやぐらが点在しています。柔らかい鎌倉石の山を掘った祠をやぐらといい、当時の僧侶が修行に使ったり、また地位の高い人のお墓などとして使用されています。平地が少ない鎌倉の特徴的な遺跡です。

やぐらの中には鎌倉江の島七福神のひとつ福徳円満の神・布袋像が安置されています。満面の笑顔の布袋尊像のぽってりとしたお腹をなでると運気上昇のご利益があるとのこと。

昼食は明月院通り沿いの民家を改築した牛煮込み専門フレンチ「北鎌倉 紫ーゆかりー」でいただくことに。鎌倉を代表するフレンチの名店「ミッシェル ナカジマ」のプリデュースで2016年にオープンしたお店です。

坂道なので石段を上がったところに玄関があります。

店内は明るく開放的な雰囲気ながらシックな和モダンな店内です。一階はどちらかと言えばG向けの大きなダイニングテーブルが配置されています。

2階に上がり、窓からは明月院通りの緑が眺められます。

お昼のランチセットは牛頬肉のビロード煮に自家製ライ麦パンのセットにサラダかスープのどちらかを選ぶと2600円、両方セットで3400円です。せっかくなので両方をセットでいただくことにしました。サラダは20種以上の鎌倉野菜を使い、下に敷かれたグリーンピースの緑のソースがほんのり甘く鎌倉野菜の滋味豊かな風味とベストマッチングでした。野菜は生はもちろん素あげしたりトマトは燻製にしたりと高さを出した盛りつけです。

スープはホワイトアスパラガスの冷製ポタージュスープで湘南のゆでしらすに塩気が程よいアクセントになっています。オリーブオイルのジェル状のものが散りばめていました。アスパラらしくないそれでいてジャガイモと違うあっさりながらもコクのあるスープでした。

メインの国産牛頬肉のビロード煮は国産牛にこだわり、低温で手間暇かけて煮込んでさらにじっくりと一晩寝かせた肉は、ナイフがいらないくらい柔らかいだけでなくゼラチン質のねっとりとした食感と旨味豊かな味わいが口に広がります。煮込んだソースを丹念に裏漉ししビロードの様に仕上げた濃厚なソースは甘くほど良い酸味があり、頬肉のアクセントになっています。ローストした鎌倉野菜の下にガーリックライスが添えられ、トウモロコシのペーストが散らされています。ワインが飲みたくなる満足したランチでした。

鎌倉街道を円覚寺方面に歩くこと200mで「東慶寺」に着きます。鎌倉幕府8代執権・北条時宗の妻・覚山尼により弘安8年(1285)に創建し、鎌倉尼五山のうち現存する唯一の寺がです。男子不入の尼寺で、封建制度の時代、この寺の門をくぐれば女性から離縁できたという縁切り寺、駆込寺の歴史があります。山門へと続く大人二人がやっと通れる細い石段の両脇を紫陽花が覆い、茅葺き屋根の山門とあわせてしっとりとした風情があります。

北鎌倉散策最後は鎌倉街道を北鎌倉駅に戻った近くに広がる壮大なる伽藍の「円覚寺」。弘安5年(1282)、北条時宗が中国宋から無学祖元禅師を招き、二度の元寇の戦没者供養のために創建した禅宗寺院。臨済宗円覚寺派の本山で、一山一寧や夢窓礎石など名立たる高僧が住職を務めた鎌倉五山の第二位です。鎌倉街道からの参道は明治22年(1889)の横須賀線開通時にこのような形に。参道の両脇には鶴岡八幡宮の神の使いが白鷺に姿を変え案内したという故事が名称の由来の白鷺池が残っています。

円覚寺総門には、後土御門天皇の御宸筆とされる山号の「瑞鹿山」の額が掲げられています。開山無学祖元(仏光国師)の創建開堂にあたっての法話に、山中から白鹿が出てきてこれに連なったことから、この名が付けられたといいます。簡素な四脚門ですが、築地塀には、門跡寺院級の格式を示す五本の白線がしっかりと刻まれています。

関東禅界の中心地で、二層屋根の壮麗な山門は天明5年(1765)に禅僧・大用国師(誠拙周樗)によって再建され、杉木立の緑と相まって荘厳な雰囲気を醸し出しています。文壇の巨匠たちも多く訪れて参禅した寺で、夏目漱石の『門』『夢十夜』や川端康成の『千羽鶴』、立原正秋の『やぶつばき』など多くの文学作品の舞台になっています。正面に掲げられた「圓覺興聖禪寺」の額字は、延慶元年(1308)頃の最初の三門再興の折の伏見上皇の勅筆で、楼上の窓は中国風の火灯窓、内部には十一面観音や十六羅漢像などを安置しています。

 

山門からまっすぐすすむと唐様禅宗様式で荘厳な雰囲気の仏殿があります。関東大震災で倒壊しましたが元亀4年(1573)に記された「仏殿指図」に基づいて昭和39年(1964)に再建されました。「大光明寶殿」の扁額は永和4年(1378)後光厳天皇より賜りました。

仏殿内には本尊である冠をいただく珍しい姿の宝冠釈迦如来像を安置しています。脇侍は、向かって左が帝釈天、右が梵天とされています。

天井画の白龍図は大和絵の著名な画家・前田青邨とその弟子・守屋多々志によって描かれました。日本に伝わる三爪の龍は、天・地・海の三界を治めることを意味しています。

仏殿左手にはかつて座禅道場だった選仏場。別名「蔵殿」とも呼ばれ、僧堂を兼ねた経堂として元禄12年(1699)伊勢長嶋藩主松平忠の寄進によって創建当時の僧堂の場所に建立されたものです。その後坐禅道場は正続院に移り、現在は、南北朝時代の薬師如来像と、円覚寺百観音霊場の一番として、大悲観世音菩薩像が安置されています。

選仏場より奥にある「居士林」は、出家をしていない在家の修行者・居士のための専門道場。大正15年(1926)の焼失後、昭和3年(1928)東京・牛込にあった柳生新陰流の剣道場・碧榕館を移築したものです。

大方丈の正門にあたる唐門(勅使門)は、天保10年(1839)に建てられ、扉には、見事な飛龍や鳥の彫り物が施されています。唐門から仏殿の横を通り「洪鐘」の案内板に従って歩きます。小泉八雲の『日本の面影』には明治23年、鎌倉を訪れた様子が詳しく書かれ、勅使門を見た後、「私たちは、粟苔の生えた、六、七メートルほどの高さの土塀の小道に沿って下り、左手に曲がる。するとひどくくずれかけた石段の前に出る。」と記されています。

今は整備された山門右手の急な階段を134段上った先にある「梵鐘」は東日本最大の大きさを誇り昭和28年(1953)国宝に指定されています。洪鐘(おおがね)とも呼ばれ、物部国光の作で、直径1.42m、高さ2.6mの大きさは形が雄大でありながら細部にまで緻密な神経がゆきわたり技法も洗練されています。鎌倉三名鐘のひとつで、正安3年(1301)北条貞時が国家安泰を祈願して寄進しました。

鐘の横には江ノ島から勧請された弁財天を祀る「弁天堂」があります。これは鋳造の際、二度失敗したものの、北条貞時が江島神社に祈願したことで三回目に成功したと言い伝えられています。

唐門と方丈の間には百観音霊場があります。江戸時代、拙叟尊者が地域内に100体の観音由来を祭ったのが起源ですが、現在は33体の観音像が並んでいます。

 

方丈庭園は見事な池を配し、清閑な佇まい。方丈は住職の居間ですが、現在は多目的に使用されています。

参道を挟んだ向かいにある妙香池は創建当初よりある方丈池で、2000年に江戸時代初期の絵図に基づき自然の姿に復元されました、向こう岸の露出した岩盤を虎の頭に見立て、虎頭石と呼びます。

鎌倉で唯一の国宝建築「舎利殿」は、鎌倉幕府3代将軍源実朝が宋の能仁寺から分骨した釈迦の歯(仏舎利)を納めていることから命名されています。当初の舎利殿は永禄6年(1563)の火災により焼失しますが、天正元年(1573)(後)北条氏康によって西御門にあった鎌倉尼五山筆頭のお寺・太平寺の仏殿が移築されました。室町時代中期頃の建築物と推定され、日本最古の唐様(禅宗様)建築物です。サワラ木葺の屋根の急勾配や軒の反り、放射状に広がる美しい屋根裏の扇垂木など、宋から伝わった建築技法が完全な姿で残されています。

鎌倉のアジサイ二大スポット、長谷エリアを楽しみます。

 

 

 

 

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