戦国の雄 上杉謙信・景勝を支えた揚北衆。謙信が本拠地とした春日山城(上越)から遠く離れた北越後、南北に長い新潟県の中部を流れる阿賀野川は、古くは揚河と呼ばれ、この揚河より北に流れる荒川、胎内川、加治川を境界として割拠していた豪族たちの総称です。鎌倉御家人の流れをくみ、領主としての独立を貫き通そうとした強者どももやがて上杉謙信の配下となり、謙信・景勝父子の権力を支える重要な存在となります。その揚北衆でも代表的な一族が荒川以北の小泉庄(村上市)の領主であった本庄繁長であり、居城したのが村上城です。山城であった村上城が近世城郭へと変遷する姿をめぐります。
越後北部の中心的な存在である村上城は、標高135mの臥牛山、通称「お城山」に築かれた梯郭式の平山城で、本丸、二の丸、三の丸、山麓の城主居館から成り続日本100名城に選出されています。別名舞鶴城、本庄城。鎌倉時代、武蔵国秩父に本拠を置いていた坂東八平氏の秩父氏の出自である行長が小泉庄(荒川以北)の地頭職として赴任、元からある荘園領・本庄に入って本庄氏を名乗り16世紀初頭(1500年代)に本庄時長が築城した中世城が原型です。永禄11年(1568)には本庄繁長が上杉謙信に反旗を翻し1年に渡り籠城しました。その時代には石垣はなく、現在の遺構は上杉景勝の会津移封後にこの地の領主となった村上氏以降に整備されたものです。元和4年(1618)に堀直竒によって山上に天守閣が築造され大改修された村上城は、近世城郭として次第に整備されていきます。総構えの規模は南北1.4km、東西2.3kmにおよびました。さらに松平直矩が播磨国姫路から15万石で入ると村上藩領は最大となり、越後の雄藩に成長します。その後、榊原政倫、松平輝貞、間部詮房などの諸氏を経て、享保5年(1720)内藤弌信が入り、明治維新までの約150年間、内藤氏の治世が続きました。写真は藤基神社から見上げる臥牛山。
城下町が形成されされたのは山上に天守閣が築造された江戸時代初期元和4年(1618)といいます。村上城が造られた臥牛山の麓の北~西側には三面川の河岸段丘を利用した新潟で最も古いといわれる城下町が広がっています。市内の東端にある標高135mの臥牛山山頂に築かれた村上城の北西には藩主の居館である本丸、その西には二の丸曲輪、三の丸曲輪と続き武家屋敷が配置され、さらに西へ町人町、寺町と続いていきます。それぞれの曲輪や町割りが土塁と堀で囲われ、出入り口である虎口には門や枡形が設けられていました。町人町と武家町という城下町を構成するこの二つの面影を色濃く残している古町です。写真は藤基神社裏手にある村上で唯一の村上城の土塁跡。
村上城内三の丸に鎮座し、社殿が城主居館から裏鬼門に位置していることから開運・勝運の神として信仰されているのが藤基神社。村上藩の藩主内藤家開祖・内藤豊前守信成を主祭神として祀る神社です。天文14年(1545)に生まれ、徳川家康の異母弟で母方の内藤姓を称した徳川十七士の一人です。享保5年(1720)内藤家5代・内藤弌信が内藤家で初めて村上藩主となったのち嘉永2年(1849)江戸内藤家邸内から遷座し社殿が建立されました。藤基神社の社殿は信成候の兄・徳川家康公を祀る日光東照宮と同じ権現造です。平入りの拝殿と本殿が石の間と呼ばれる渡り廊下部分で繋がれ、3つの建物が1棟で接続されている特殊な神社建築様式です。また総欅造で彫刻がふんだんに施された社殿は完成に8年の歳月を要しました。漆などの塗装をせずケヤキの木肌むき出しの白木の社殿は重厚感があります。
本殿の周囲は唐門と源氏塀が囲み、頑なに神域を守っています。塀の腰長押は繋ぎ目のない一本の木を使い贅沢な造りです。
藤基神社の社殿彫刻は村上が生んだ名工「有磯周斎」の生涯最高傑作であり、一本の木から彫出し立体的に仕上げる「籠彫り」と呼ばれる技法による荘厳精緻な作品の数々に彩られています。蟇股には双龍、虹梁には藤が装飾されています。内藤家の定紋であり、藤基神社の神紋でもある「下り藤」は社殿の至る所に彫刻されていて、拝殿の扁額上部には内藤家裏紋の「軍配団扇」を、社殿内の釘隠しには内藤家の印「卍」が施されています。また、総門正面の石垣は村上城の石垣と同じ柏尾の石が使われています。
拝殿前には、5回投げて、一つでも入れば運気良好という「運試し輪投げ」や色によって御利益が異なるひもを結ぶ「むすびの神」があります。赤は恋人との縁、緑は健康との縁など自分に合うひもを結びます。
境内には数多くの石碑が建立されていますが、その中でも「種川の碑」は世界で初めて鮭の回帰性を発見し、村上の鮭を守った村上藩士・青砥武平治の頌徳碑(右)と戊辰戦争時、奥羽越列藩同盟に加盟し、新政府軍と戦ったことから責任を一身に背負い自決したことで村上市を戦火から守った二十九歳の若き家老・鳥居三十郎の追悼碑(左)には感じるものがあります。
村上城三の丸であった現在の場所に18世紀の末頃建てられた中級武士の住宅が若林家住宅です。部屋割りが細かく土間が狭いなど侍屋敷の特徴が見られます。すぐ近くに村上市郷土資料館などの施設が3棟立っています。ここから少し北東にある「まいづる公園」にも3棟の武家屋敷が移築されています。
村上城跡へはお城山入口から登城します。現在お城山児童公園及び駐車場となっている近世城主居館跡に車を停めます。本庄時代の大手は臥牛山の東側でしたが、山上を中心に長大な石垣を張り巡らせ、城下を整備し、村上城を近世城郭へと変貌させていく過程で城の大手も現在の西側に移されています。
居城・本丸の入口としての門「一文字門」があったところです。全面を枡形として石垣を高く積み、その上に塀を回し、冠木門を付属させた二重構造の厳重な門構えでした。コの字形の深い堀と高い石垣に囲まれた郭内は、三層の隅櫓や二層の櫓三棟を塀でつなぎ、正面付近には、跳ね橋を架け、敵が侵攻した時には橋をひき、守備を堅固にしました。山頂の城郭に行くには、一文字門を通らなければならず、城攻防の最後の拠点となるところでした。元和6年(1620)頃、堀直竒により完成されました。
山頂城郭への正規の登城道となっているのが通称七曲り道(登城道)と呼ばれるつづら折りの山道で20分ほどで山頂まで上っていきます。階段の幅や高さが均一でなく上りづらく実際は8回曲がります。
山麓の一文字門跡から登ること10分、上りきったところにある山上部の遺構が四ッ門跡。この門は山頂部が最もくびれた部分に位置していて一つの門で4方向の通路を扼える特殊な構造になっています。正面が埋門に通じる中世遺構散策コース、左手が鍛練場跡の三の丸になります。
まずは二の丸方面に進むと、道は急な上り坂となりこの斜面の頂部に御鐘門跡の枡形虎口が現れます。この遺構を特徴付けるのは他の遺構と比べて非常に加工度の高い石材で築かれた石垣です。村上城の石垣はほとんどがやや荒々しさを残した「打込接」で築かれているが、この門に限ってほぼ「切込接」に近い精度で加工された石材で築かれています。おそらく築城当初はなく、松平直矩が大改修を行った寛文3年(1663)頃の築造であろうと思われる。
御鐘門を過ぎると曲輪は二の丸(上通り道)となり、本丸に向けてしばらく平坦面が続くと、やがて目の前に次第に立派な高石垣がせり出してきます。上に位置していたのが出櫓です。出櫓は本丸天守への侵攻を阻止する村上城最大かつ最強の防衛施設です。出櫓の形状については二層櫓であったと思われ、本丸へ向かう敵兵に対し、横矢をかけることを狙った繋張りです。現在も残っている出櫓台は築城初期から増築や改修が行われ、特に松平忠直矩の頃に改修され、現在のものに近い姿となったと考えられています。
村上城の二の丸は高さの違う二つの曲輪が本丸へ向かって並走する構造になっていました。ひとつは御鐘門から出櫓を経て本丸に向かう「上通り道」。もうひとつが東門から続く「下通り道」でどちらの曲輪も幅10mにも満たない細長い空間です。この段差のある二つの曲輪をまたいで同時に出櫓脇の細い城道を塞ぐ形に位置して山頂部本丸と二の丸を画していたのが黒門です。そのため左右に並んだ門扉を二つ持つ特殊形状の城門でした。
出櫓脇を通過して本丸に向かう「上通り道」「下通り道」の二つの通路は4、5mの幅しかない上に、写真向かって右側は切岸、左側は石垣によって閉塞されています。よって敵兵は逃げ場のないまま、本丸直下までの5ー60mあまりを一列縦隊での通過を余儀なくされるもです。
黒門を抜け、目の前に見えてくるのが本丸塁線の石垣です。他の曲輪の石垣高が4、5mにとどまるのに対し、本丸のみが7、8mと倍近い高さの石垣で築きあげられています。帯曲輪に周囲を囲まれ、石垣基底部が安定しています。黒雲母流紋岩の石垣材は、村上城から10km北の日本海に面した柏尾の採石場から運ばれたものと考えられています。石積みは「打込接の布積み」が主体ですが、本丸天守台の一部にやや古相の「野面積み」が見て取れる。
本丸東側は野面積みっぽい石垣となっています。一見古い時代の石垣に見えますがどうでしょうか。
冠木門跡まできたら山頂(本丸)は目前。本丸唯一の出入り口にあたる冠木門は、山上部最後の関門となる櫓門でした。高麗門を構える外枡形空間を曲輪外に設け、さらに門の内側にも枡形空間を配し、門を突破された後の頭上攻撃を意図した構造です。
通路を上から見るとコの字型になっていてかつて塁線上には多門櫓や二重櫓が次々に接続していたと考えられています。また枡形に面した石垣(左手奥の木の右)には、長軸2.7mほどの巨石が配されています。自然石をそのまま利用したいわゆる「鏡石」であり、入口に巨石を配することで、登城者を威嚇することを狙ったものです。この石は「丹波石」とも呼ばれ、石の裏には山麓に通じる抜け穴が掘ってあるとの伝承も残されています。
本丸に到着。標高135mの臥牛山山頂です。標識背後の石垣跡には天守台から続く渡り櫓が伸び、冠木門へと接続していました。
天守跡からは城下、三面川、そして対岸の下渡山が望めます。市街地の先に三面川が注ぐ日本海が見え、遠く北太平洋まで回遊したごく一部の鮭が帰ってくると思うと「おかえり」と言いたくなる気持ちが、この地に立つとわかります。
村上城跡の本丸南西隅には、かつて元和4年(1618)に堀直竒によって山上城郭を大改修にした時に初めて築かれた三層の天守櫓が存在していました。慶安2年(1649)播磨国姫路から移り、村上藩主となった松平直矩によって寛文元年~5年(1661~1665)頃にさらに大きく立派なものに改変されました。特に本丸は地形を三尺(約90cm)ほど下げ、天守櫓をはじめ山上山下合わせて21の櫓が造り替えられたといいます。しかしその天守櫓も寛文7年(1667)に落雷火災により焼失し、その後は再建されませんでした。本丸周囲には石垣造りの帯曲輪が築かれ、その四隅にはそれぞれ櫓が上げられていました。中でも帯曲輪南西隅に置かれた乾櫓は天守台の直下に位置し、防衛上重要な役割を担っていました。写真は乾櫓跡から望む天守台。
埋門から中世遺構散策コースへ。埋門は村上城の東側の搦め手への出入り口にあたる門です。ここを下ると近世の搦め手道や中世の腰曲輪跡などにいたります。石垣や土塀などに小さく開口部が設けられたトンネル状の門のことで、「穴門」とも呼ばれます。普段はあまり使われず、緊急の際の非常口のような役割がありました。
戦国時代の村上城は臥牛山の地形を巧みに利用した天然の要害で他の中世城郭同様、石垣は用いていません。この時代の本丸の位置は近世のものとほぼ一致しています。永禄11年~12年(1568~69)の上杉謙信との交戦当時の大手である臥牛山東側に集中する虎口・竪堀・腰曲輪・切岸などの遺構群は上杉戦に備えて整備されたものと思われます。写真は腰曲輪
坂中門跡は搦め手主要門のひとつで最もよく旧状を残しています。遺構としては門の両袖を固めた石垣と、その裏手にある武者溜り状の削平地が残っています。今では草木に埋もれてしまっていますが築城当初は「万亀丸」と呼ばれた大きな曲輪でした。また一角には写真の鉄砲倉が設けられ、土塁で区画されていました。
村上城跡は地形を巧みに利用した戦国期の遺構と新潟県下最大規模の江戸期の石垣とが共存していることが他に類を見ない最大の特徴であり、中世と近世の両方の遺構を散策することができます。
「サケの城下町“村上”で知る鮭文化。魚といえば、鮭のこと」はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/14704