福島県を代表する城下町・二本松。「お城山」の愛称で市民の憩いの場となっている霞ヶ城公園は、江戸時代に丹羽光重が白河藩から移封され、以後220余年にわたり二本松藩の政庁だった二本松城跡です。また江戸時代二本松藩の城下町として発展した市街地エリアには由緒ある寺社や老舗の和菓子店が点在し、散策していると往時の暮らしがよみがえります。戊辰戦争の悲話も残る二本松の歴史に触れ、昔の面影を探しに行きます。
二本松藩主・丹羽家の家紋「✖」は現代人が連想する「バッテン」ではなく直違紋(すじかいもん)です。織田信長のもと、織田四天王と云われた丹羽長秀公以来の家紋です。領内の寺社のなかには丹羽家の御家紋の使用を賜ったものがあり、甍などにその姿を認めることができます。二本松市内を散策の際に、シンプルであるがゆえに力強い偉大な「✖」を探してみるのも楽しみです。
JR東北本線二本松駅を出て徒歩3分、駅前通りを直進すると突き当りに旧二本松藩の総鎮守二本松神社があります。社殿によれば創建は近衛天皇の御代、久安年間(1145年頃)とされ二本松に地頭として入った安達藤九郎盛長(鎌倉殿の13人の一人)が塩沢田地ヶ岡に居を構えた際に熊野権現を「熊野宮」として祀ったことに始まります。その後奥州探題だった畠山満泰が塩沢田地ヶ岡から白旗ヶ峰に居を移し、二本松城と称した際、「熊野宮」と畠山氏の氏神である八幡大神を祀る「八幡宮」を城内に合祀させ「御両社」とも呼ばれました。明治5年御両社は二本松神社に改称しています。
寛永20年(1643)二本松藩の藩主として入った丹羽光重は寛文元年(1661)「御両社」を現在の地に遷座させ、二本松の総鎮守として領民が誰でも参拝できるように開放しました。この時歴代城主の守護神であった八幡神(品陀和気命)を下座である左側に、領民の守護神であった熊野宮(伊邪那美命)を神座である右側に祀りました。社殿は寛政6年(1794)に焼失、文化3年(1806)に丹羽長祥により現在の社殿が再建されました。10月第一土曜日から3日間、日本三大提灯祭のひとつ二本松の提灯祭りが行われます。
参道の随神門は翌年の文化4年(1807)に建てられました。領民の参拝が許されたのでいつしか茶屋商家が立ち並び門前町として栄えました。
二本松城は、中世から近世にかけて同じ場所で存続した東北では稀有な城跡です。築城は15世紀中ごろの応永21年(1414)奥州探題・畠山満泰の居城に始まり、天正14年(1586)畠山氏を滅ぼした伊達氏に一時支配されたのち、豊臣秀吉の奥州仕置以降は会津領として、蒲生・上杉・加藤氏らの城代時代が続きました。寛永20年(1643)、丹羽光重が白河藩から二本松藩10万700石の初代藩主として移封され、以降11代220有余年にわたり丹羽氏の居城となり、慶応4年(1868)の戊辰戦争を迎えることになりました。
二本松城(別名霞がヶ城)は、阿武隈山系の裾野に位置する標高345mの白旗ヶ峰を中心として三方が丘陵で囲まれた、馬蹄型城郭で、自然の地形を巧みに利用した要塞堅固な名城でした。日本100名城に選定されています。現在霞ヶ城公園として整備された二本松城跡の藩庁門付近、駐車場脇にあるのが旧二本松藩戒石銘碑です。寛延2年(1749)二本松藩5代丹羽高寛公が藩の儒学者岩井田昨非に命じて、藩士の規範とする四句十六字を、藩士の通用口である藩庁門前の自然石に刻んだものです。原点は後蜀の君主孟昶が965年に作った「戒諭辞」に求められ、また戒石銘碑の起源は、983年北宋時代の君主・太宗が州県の官吏に示したことに始まるといわれています。『爾の俸 爾の禄は 民の膏 民の脂なり 下民は虐げ易きも 上天は欺き 難し』とあります。この意味は「武士の給料は人々の汗と脂の結晶である。民は虐げ易いけれども神を欺くことはできない。だから民を虐げると、きっと天罰があるぞ」と解釈されています。教育資料として、また行政の規範としての価値が高く評価されています。
戊辰戦争では、隣藩会津への義に殉じて戦火に巻き込まれ、旧幕府軍の要衝として位置づけられた二本松藩の玉砕戦壮絶を極め、一連の戦いは戦場で幼き命を散らした12歳から17歳の少年兵で結成された「二本松少年隊」の悲劇の舞台となりました。二本松少年隊群像は戊辰戦争二本松最大の激戦地・大壇口戦場における大儀のため戦う隊長及び少年隊士の奮戦姿と、わが子の出陣服に藩主丹羽氏の家紋・直違紋「✖」の肩印を万感迫る思いで縫いつける母の姿を像に表したものです。彫刻家橋本堅太郎氏がブロンズ制作(平成8年建立)しました。
慶応4年(1868)7月戊辰戦争の最中、二本松藩大半の兵力が西軍を迎え撃つべく出陣し、城内、城下は空虚同然でした。この緊迫した状況の下、少年たちの出陣嘆願の熱意に、藩主は止むなく出陣許可を与え、12歳から17歳までの少年62名が出陣。7月29日、城内への要衝・大壇口では隊長木村銃太郎率いる少年25名が果敢に戦ったが、正午ごろ二本松城は炎上し落城しました。なおこの地は「千人溜」といい藩兵が集合する場所であり、少年隊士もここからそれぞれの守備地に出陣しました。
お城への登城に石段を上っていった先に箕輪門があります。初代藩主丹羽光重公入府まもなく、城内整備のため御殿と共に最初に建造した櫓門です。
主柱材料のカシの巨木は領内の箕輪村山王寺山の御神木を用いたことからこの名があります。
箕輪門北側の石垣上に、土塀に代えて植えられたと見られるアカマツの古木群。樹齢350年を越え、樹冠が傘状を呈し長い枝を石垣下に垂らし、見事な景観を呈しています。
高さ9.9~13mをはかる高石垣は、加藤氏時代(寛永4年~20年)に築造されたもので、盛土による石垣であるため、その配水処理として吐水口が設けられています。
石垣を積む際にその勾配を調整するために積石と積石の間にはさむ金属製の板を敷金といいます。本来は石垣正面からは見えませんが、箕輪門内の桝形を構成する石垣のひとつにみることができます。探してみてください。
本丸跡は調査の結果、根石が全周残されていることが判明し、形状が明らかになりました。さらに加藤氏時代に本丸が拡張された痕跡も確認され、天守台は造られまぢたが天守閣はできませんでした。当城跡最古期の穴太積石も現存しており、平成5年から総工費約5億3千万、2年をかけ石垣の前面修築復元工事が完成しました。天守台からは見晴らしも良く、街並みが一望できます。※あまりにも勾配がきつく自動車でないと登城は無理です。
丹羽家代々の菩提寺であり歴代藩主の墓が祀られているのが「大隣寺」です。丹羽家初代長秀公の菩提を弔うために2代長重公が寛永4年(1627)、越前国の融法全祝大和尚を招き、白河の地に大隣寺を建立。三代光重公の二本松移封により、大隣寺も二本松に移り、二本松藩歴代菩提寺となりました。
現在の本堂は文化8年(1811)の大改築によって築かれたもので戊辰戦争直後には、二本松藩庁の仮事務所や藩校などにも使用されました。寺号は、初代丹羽長秀公の法名(総光寺殿大隣宗得大居士)の大隣に由来し、寺紋には丹羽家の家紋直違紋「✖」を用いています。
丹羽家の祖は尾張国丹羽郡児玉村に住し、室町幕府三管領の筆頭で、越前・尾張の守護である斯波氏に仕え、三十代忠長の時に丹羽を姓としました。三十一代長政の第二子であった長秀は若くして斯波氏の守護代織田氏に仕え、織田信長に重臣になっていきます。
また境内には戊辰戦争で幼い命を散らした二本松少年隊の供養塔があります。慶応4年(1868)7月26日三春藩の突然の降伏により二本松藩の横腹を突く形となった西軍は潮の如く二本松城下に迫りつつありました。29日朝隊長・木村銃太郎、副隊長・二階堂衛守が率いた二本松少年隊25名が出陣した大壇口で戦闘が開始されました。土佐の板垣退助率いる新政府軍本体との攻防戦は歴然とした戦力差のなかでの玉砕戦となりました。隊長・副隊長と14名の少年隊の魂がここにここに眠っています。
駅方面に戻り、奥州探題で、二本松城址の畠山氏の菩提寺・称念寺を訪れます。文治元年(1185)法相宗の尊導和尚により開山。弘安3年(1280)時宗の宗祖一遍上人が奥州遊行の折、時の住職・秀山和尚が帰依し改宗、一遍上人を開山上人として寺号を「称念寺」と改めました。応永20年頃(1413頃)奥州探題・畠山満泰公による霧ヶ城築城の時、畠山家代々の菩提寺と定められました。霧ヶ城落城によって落ちのびていましたが、丹羽光重公による町割りの完成後、現在地に移築、再興されました。畠山家累代の墓と「粟の須の戦」で義継とともに畠山戦死した家臣23人が祀られています。
二本松駅前にも二本松少年隊士像「霞城の太刀風」。平成22年10月1日に完成
織田信長四天王(柴田勝家・滝川一益・明智光秀)の中で唯一人丹羽長秀の子孫が大名として徳川幕藩体制の中、明治維新まで続き、会津の白虎隊に負けない戊辰戦争の悲話に驚く二本松城下町巡りでした。